2025年8月3日日曜日

香天集8月3日 玉記玉、森谷一成、夏礼子、辻井こうめ、柏原玄ほか

香天集8月3日 岡田耕治 選

玉記玉
十指老いるワインゼリーの揺れる度
裏側も青い林檎と思いけり
蹼がひらいてきたる生家かな
はんざきと時には父が入れ替わる

森谷一成
票にならぬ事は語らじ百日紅
わが家から先ずは向いの片かげり
大日本帝国海軍吊床苦(ハンモック)
手花火にメメント・モリの起つところ

夏礼子
右耳で聞いてほしいの合歓の花
束の間を考えている蛍かな
これほどに濡れのうぜんの寝入りたる
憂きことを先に忘れるところてん

辻井こうめ
変身の虫にはならず心太
蟬時雨直立にして降りにけり
核心に触れてはならず百日紅
夏海のポールモーリアエンドレス

柏原 玄
冷奴静かに過去の近づきぬ
添削一字激する百合の花
羅を脱ぐ屈託を捨てるべく
父祖の血を巡らしており天瓜粉

中嶋飛鳥
青嵐いまだ踏ん切りつかぬまま
見倣いて左足から大茅の輪
姉妹かと問われし妣の扇風
蓮の花大和三山正座せる

前藤宏子
縁側の風の記憶と昼寝かな
夏痩を知らず米寿へまっしぐら
白薔薇逢えずにおりし人の逝く
蝉鳴けり楽しむ如く刺す如く

宮崎義雄
一斉に鳴いて鳴き止む雨蛙
雲の峰硫黄噴き出す白煙
寝転ぶや夏野の雲を懐に
焼酎の水滴拭い夜の秋

嶋田静
紫陽花の鞠に妖精現れる
実家無し泰山木の記憶有り
大岩の女鎖に惑う夏
星祭宇宙の人とハイタッチ

森本知美
廃校に老人集う半夏生
夏霧や歳を忘れている仲間
故郷のことば忘れし大暑かな
蓮まつりはちすに見つめられている

安田康子
水中花生き抜く術を知っており
百歳まで友と一緒と青胡瓜
誰もいぬ故郷のあり梅雨の空
短夜や形見のカメラ電池切れ

木南明子
夕方にせわしくなりぬ赤とんぼ
米寿かな大樹となりし百日紅
つがいかも知れぬ行手の夏の蝶
遠雷や昨日と今日の区別なく

松並美根子
夏空や香りを寄せる風のあり
縁側に老いて味わう土用凪
声小さく多くの蝉の飛ばぬまま
目立たなくなっているなり半夏生

目美規子
夏空を旋回ブルーインパルス
夾竹桃予約カットは午前中
分けられし胡瓜ずんぐり太り気味
ゴキブリを踏まんと構え逃げられし

金重こねみ
献立に汁物加え若葉冷
鮎を焼く塩の一振り多くして
ふんばって両手は腰に雲の峰
耳かきを探しあぐねる合歓の花

吉丸房江
分け合いて虹の形のドーナッツ
七夕祭紙から鶴の生まれけり
梅仕事天気予報とにらめっこ
過去たちが踊り出てくる箪笥かな

〈選後随想〉 耕治
裏側も青い林檎と思いけり 玉
 木なっているリンゴを見て、「まだ青いな、きっと裏側も青いのではないか」と思った。人間というのは、見えてるところだけではなく、裏側、見えないところへも意識を向けていくことができる。表側も、見えない裏側も青いということは、まだ未成熟だけれども、同じ青い色をしているというところに、この林檎そのものを肯定しているような感じがする。そこから広げて、同じ青い色をしている、未熟な自分を肯定しているような、そういう気分がしてくるところが、玉さんならではの感性だ。

大日本帝国海軍吊床苦(ハンモック) 一成
 私は毎年ハンモックの俳句を作るが、ハンモックってこんなふうに書くのかなと、調べてみた。吊床と書いてハンモックと読むので、ついている「苦」は、一成さんがつけたのか、それとも誰か、まさに兵士がこう書いたのを見つけたのか、どちらかだろう。大日本帝国海軍というこの重々しい言葉に、ハンモックをつけたのは、船中に吊るされた床に寝る兵士たちの苦痛を表したかったのだと思われる。また、括弧してハンモックと書かれているので、漢字とのギャップも面白い一句だ。(「香天」誌上では、ハンモックとふりがなを打ちます。)

憂きことを先に忘れるところてん 礼子
 ところてんの透明でツルツルした喉越しは、どんなこともすり抜けていくかのような感覚がある。一口目は、「憂きこと」、二口目からはゆっくりと「良きこと」を思いながらところてんを愉しむ。ここには、時の流れや日常の小さな楽しみが、心を癒してくれるという、前向きな捉え方が込められている。人生の苦みを、静かな目線で捉え、それを優しく包み込むような温かさを感じる、礼子さんらしい一句だ。

変身の虫にはならず心太 こうめ
 これはカフカの小説で、目覚めたら虫になってたという『変身』を想起させるが、そうでなくとも、甲虫とか蝶というような生き物になりたい、なにかに変わりたい、もっと違う自分になりたいというような気持ちを象徴しているのかも知れない。けれども、そういう変化は起こらず、ただ普通に起きて心太を食べている。自分は思うようには変われない、現状維持がやっとだけれど、まあこの心太は美味しいね、というような。一見するとおかしみのある取り合わせなんだけれども、その奥には理想と現実のギャップに対する、ほのかな哀しみが感じられる。こうめさんの句には、すてきな絵本や物語が登場する。

父祖の血を巡らしており天瓜粉 玄
 夏の暑さ、汗ばむ肌、それを優しくはたく、さらさらとした天瓜粉の感触が連想される。風呂上がりのそれは、不快な汗を吸い取り、肌を心地よくしてくれる、日常のささやかな安らぎのひとときである。遠い先祖から受け継いだ命、今ここに生きる自分という存在を浮き立たせる、静かで深いひとときなのかも知れない。さらに天瓜粉は、カタクリやクズなどの植物から作られる、言わば自然の恵みだ。その粉を身にまとう行為は、大地に根ざした生命の循環を想像させる。自分という存在が、先祖から受け継いだ命だけでなく、自然の恵みによっても生かされているという、大きな生命観を表現する玄さんの作品である。
*滋賀県庁にて。