2026年6月28日日曜日

美しい気配の一つ枇杷熟れる 古澤かおる

〈俳句物語〉 岡田耕治

美しい気配の一つ枇杷熟れる 古澤かおる

 大学3回生の就職活動。二十社ほど受けた面接の帰り道、彼女はいつも、自分という存在が社会に必要とされていないような心細さに包まれていた。「あなたの強みは?」という問いに答えるたび、等身大の自分が見失われていくような気がした。最終面接まで進んでは、あと一歩で届かない。その繰り返しの中で、彼女の心に自己否定の闇が広がっていった。

 4回生になり、幼い頃からの夢だった教員への道を選び直した時、キャリア支援の窓口でふと目に留まったのが、ある離島の講師募集チラシだった。「教員免許があれば、まずはオンライン面接から」。その言葉が、強張っていた彼女の心を解いてくれた。今の自分をそのまま受け入れてくれる場所が、海の向こうにあるのかもしれない。そんな予感に背中を押され、彼女は新しい世界へ一歩を踏み出した。

 春、大きなキャリーバッグと共に降り立った島は、光に満ちていた。下宿先は、七十代の温和な老夫婦が営む離れ。本島で暮らす子どもたちを思うご夫婦は、彼女を本当の娘のように、「よおきんさったね」と温かいお茶と「かんころ餅」で迎えてくれた。潮騒の音を聞きながら眠りにつくと、かつての焦燥感は、その音に溶けていくようだった。

 全校児童二十人の小学校は、家族のような温もりに溢れていた。彼女が受け持ったのは5年生。初めての授業、緊張で震える彼女の手を包み込んだのは、子どもたちの真っ直ぐな瞳と、先輩教員たちの「大丈夫、みんなで見守っているから」という優しい言葉だった。失敗を恐れていたかつての自分はいつの間にか消え、子どもたちの成長を共にする日々に、彼女は自分自身の「強み」を、肩書きではなく心の中に見出し始めていた。

 放課後、校舎から見える海はエメラルドグリーンからコバルトブルーへと表情を変え、彼女の心を癒していく。夕暮れ時、空がピンクやオレンジの優しいグラデーションに染まる頃、彼女は自分がこの島の一部になれたような安らぎを感じるようになっていた。

 ある日の夕食後、大家さんが玄関に置いてくれた新鮮な野菜を手に外へ出ると、清流のほとりで蛍が舞っていた。静かに、けれど力強く明滅する光に見惚れていると、「先生、これ食べんね!」と明るい声が響いた。

 担任しているケンくんが差し出してくれたのは、夕暮の光に温まった、もぎたての枇杷だった。庭先に目をやると、橙色の実は、初夏の光を蓄えてふっくらと輝いていた。



香天集6月28日 玉記玉、古澤かおる、春田真理子、夏礼子ほか

香天集6月28日 岡田耕治 選

玉記玉
青鷺じっとフルートになりとうて
滴りを抓んで水を壊しけり
薔薇のジャム知恵熱とはこんな
恐竜の卵の気分ハンモック

古澤かおる
身の上に迫る勢い蔦茂る
父の日の豆大福は柔らかい
老いてゆく手の強張りも梅雨入りかな
美しい気配の一つ枇杷熟れる

春田真理子
案じいし蛍袋の色づきぬ
たっぷりのバターを焦がす麦の秋
新しき主を待てり柿若葉
薄暑光乗り込んで来る画板かな

夏 礼子
走り梅雨善意の傘を見なくなリ
紫陽花の囲む待合室ひとり
万緑を映していたり大鏡
小指刺しくちびるを刺す蚊一匹

中嶋飛鳥
花詞のひとつを択び薔薇選ぶ
地球儀の青の球体思う夏   
反りに反る砂の蚯蚓の一部始終
むらさきの羅の母ふりかえる

柏原 玄
芍薬の雨を味方にしていたる
膨らみしひだり鼠径部五月雨
師の手なる添削の句の涼しさよ
逢いたくて三ッ矢サイダー喇叭飲み

辻井こうめ
夏燕父のバリカン手際良く
バイブルは恐竜図鑑夏木立
塩揉みの紫蘇の紫極むまで
薄紅の梅酢グリーンサラダかな

神谷曜子
夏の蝶迷いて色をこぼしゆく
神様に貰いしひと日青葉潮
時にある光と影や紫蘭咲く
諦めた揺れ方をする小判草

砂山恵子
暮れるほど風甘くなる田植かな
向日葵やゆらりと女医のワンピース
二人ゐて二人の時間蛍の夜
路地胡瓜あれは若さの手前の香

木村博昭
少年に戻りし眼して苺食ぶ
知恵あらば戦を止めよ麦の秋
青空の未来へ向う今年竹
老いぬれば五体重たし梅雨に入る

前藤宏子
父の日の息子に届く長メール
更衣腹筋五十と一万歩
夾竹桃野球少年休憩中
紫は亡き姉の色花菖蒲

浅野千代
葉桜や先生の字は先生で
生きてますと一言のあり夏見舞
星涼し十五年経ち十五老ゆ
だれとなく車窓に振る手風薫る

安田康子
公園の蛇口上向き夏来たる
麦こがしむせて昭和のもどりけり
白靴を仇のように履きにけり
梅雨の月みな平等に歳をとり

森本知美
世界病む蛍の平和点滅し
茄子の花家庭菜園第一歩
故郷は植田となりて海光る
老鶯の声通り来る雨の中

河野宗子
入梅や優先席を立つ勇気
信越の峠釜飯夏きざす
夕焼の紅茶一杯銀の匙
走り梅雨男の口を煙出る

木南明子
生垣に声をひそめる梅雨入りかな
甘草の花したたかに咲き添いぬ
デイゴの花沖縄の赤したたらせ
空の青百合咲く丘にたたずめり

金重こねみ
リハビリの今日の目標四葩咲く
神木を目覚ます鼓薪能
なめくじら生きる権利は家の外
梅雨夕焼見知らぬ人と見送りめ

松並美根子
山法師傘寿を祝う同窓会
入梅や日照り続きの空を見る
紫陽花や個性織り成す二人展
梅雨晴るや柿渋染のタペストリー

目 美規子
老眼鏡上目遣いで蚊を払う
久々のダンスパーティー夏ドレス
梅雨晴間古民家カフェのモーニング
梅雨しとど降圧剤の増えにけり

〈俳句物語〉 岡田耕治
美しい気配の一つ枇杷熟れる 古澤かおる
 大学3回生の就職活動。二十社ほど受けた面接の帰り道、彼女はいつも、自分という存在が社会に必要とされていないような心細さに包まれていた。「あなたの強みは?」という問いに答えるたび、等身大の自分が見失われていくような気がした。最終面接まで進んでは、あと一歩で届かない。その繰り返しの中で、彼女の心に自己否定の闇が広がっていった。
 4回生になり、幼い頃からの夢だった教員への道を選び直した時、キャリア支援の窓口でふと目に留まったのが、ある離島の講師募集チラシだった。「教員免許があれば、まずはオンライン面接から」。その言葉が、強張っていた彼女の心を解いてくれた。今の自分をそのまま受け入れてくれる場所が、海の向こうにあるのかもしれない。そんな予感に背中を押され、彼女は新しい世界へ一歩を踏み出した。
 春、大きなキャリーバッグと共に降り立った島は、光に満ちていた。下宿先は、七十代の温和な老夫婦が営む離れ。本島で暮らす子どもたちを思うご夫婦は、彼女を本当の娘のように、「よく来たね」と温かいお茶で迎えてくれた。潮騒の音を聞きながら眠りにつく夜、かつての焦燥感は、その音に消えていくようだった。
 全校児童二十人の小学校は、家族のような温もりに溢れていた。彼女が受け持ったのは5年生。初めての授業、緊張で震える彼女の手を包み込んだのは、子どもたちの真っ直ぐな瞳と、先輩教員たちの「大丈夫、みんなで見守っているから」という優しい言葉だった。失敗を恐れていたかつての自分はいつの間にか消え、子どもたちの成長を共にする日々に、彼女は自分自身の「強み」を、肩書きではなく心の中に見出し始めていた。
 放課後、校舎から見える海はエメラルドグリーンからコバルトブルーへと表情を変え、彼女の心を癒していく。夕暮れ時、空がピンクやオレンジの優しいグラデーションに染まる頃、彼女は自分がこの島の一部になれたような安らぎを感じるようになっていた。
 ある日の夕食後、大家さんが玄関に置いてくれた新鮮な野菜を手に外へ出ると、清流のほとりで蛍が舞っていた。静かに、けれど力強く明滅する光に見惚れていると、「先生、これ食べんね!」と明るい声が響いた。
 担任しているケンくんが差し出してくれたのは、夕暮の光に温まった、もぎたての枇杷だった。庭先に実る橙色の実は、初夏の光をたっぷりと蓄えてふっくらと輝いている。その優しい甘みは口いっぱいに広がった。ここで出会った人々、この景色、そして自分を信じてくれる子どもたち。そのすべてが、彼女の新しい物語を彩る大切な宝物なのだ。
*天道虫白紙に包み込まれたる 岡田耕治

2026年6月21日日曜日

あめんぼの光をひらく閑けさよ 谷川すみれ

〈俳句物語〉 岡田耕治

あめんぼの光をひらく閑けさよ 谷川すみれ

 駅から自宅へ向かう途中に小さな公園がある。雨でないかぎり、彼女はそこに立ち寄る。公園の一角にあるビオトープが、お気に入りの場所だ。電車の中や通りの喧騒とは別世界の静けさの中に身を置く。それが心地よい。

 大学で教員免許を取得したものの、公立の教員採用試験は受けなかった。いまは私立の通信制高校でメンターとして働いている。授業はすべてオンラインであり、彼女が教壇に立つことはない。メンターの役目は、レポートの締め切り管理や学習状況の共有、そしてネットや対面での相談対応だ。生徒の中には、不登校経験者も多い。

 この道を選んだのは、自身の経験ゆえだ。中学二年生の時、彼女自身も不登校になった。当時の担任は、家庭訪問や電話、メールといった形で、さまざまな方法で寄り添ってくれた。「学校へおいで」という言葉は、一度も言われなかった。その柔らかい関わりのおかげで、三年生になると少しずつ登校できるようになり、高校、大学と進学を果たした。あの担任のように、不登校を経験したり、学校に違和感を抱いたりしている生徒の力になりたい。そんな憧れが、この学校へ彼女を導いた。

 彼女が大切にしているのは、生徒同士の繋がりだ。登校のペースはそれぞれ違う。けれど、顔を合わせた際に「この子とあの子なら話が合いそう」と感じれば、一緒に昼食を取ったり、談話室で話したりする。自身の経験を振り返れば、人との関わりや対話が、どれほど自分をはげましてくれたかを知っているからだ。

 ビオトープの池。あめんぼが水面を滑ると、足元に同心円状の波紋が広がる。今日の食堂での対話と同じように、三匹のあめんぼの動きが、眠っていた水面の光を呼び覚まし、外側へと押し広げていく。まるで、彼女の大切にしている営みを肯定してくれるように。


香天集6月21日 谷川すみれ、三好広一郎、柴田亨、嶋田静ほか

香天集6月21日 岡田耕治 選

谷川すみれ
あめんぼの光をひらく閑けさよ
死者は今いずこの空を山法師
洗い髪宇宙の隅へ解き放す
転倒の一瞬開く黒揚羽

三好広一郎
結婚はできない薔薇にならなれる
充電の切れて避暑地の清々し
ぶらんこは美人の星を待っている
一日がぷっふぁ~と終る缶ビール

柴田亨
泣き顔の龍雲海に咆哮す
酷暑来る青丘文化ホールあと
真田山セメント墓碑の崩る夏
雨粒が寄り添ってあり椎若葉

嶋田静
紫陽花を囲みやさしくなっており
白菖蒲遺影の母の笑顔にて
所望せり追い風の名の花菖蒲
師に続く白詰草の香る道

加地弘子
青空の近づいて来る紫木蓮
一片は佐藤さんちの紫木蓮
千切れても繋がっている紫木蓮
新緑に烏と鳩の混ざる昼

安部いろん
夾竹桃男は生きるために死ぬ
夾竹桃モディリアーニのエビュテルヌ
手に届く虹がここにも阿古屋貝
誰からも識られぬ未来百日紅

宮下揺子
明け易し夢の続きを夢を見る
子を持たぬ夫婦の渋いアイスティー
卯の花腐し果ての無い自信持つ
大夕焼屋根飛び移る猫の影

俎石山
惜しまれず去って行くなりつくしんぼ
五月晴物言わぬもの見送りぬ
亡き友の遺品となりしラムネ玉
水茄子に染まった指と指のあり

佐藤浩章
ウォーキング背中合わせの蝉しぐれ
外壁の色を貪る西日かな
白鷺の首のバルーンアートなり
磨崖仏借景にして女郎蜘蛛

長谷川洋子
会社より呼び出しかかり五月雨
白牡丹考え方を変えており
立葵何があっても驚かぬ
辞世の句考えている山椒魚

〈俳句物語〉 岡田耕治
あめんぼの光をひらく閑けさよ 谷川すみれ
 駅から自宅へ向かう途中に小さな公園がある。雨でないかぎり、彼女はそこに立ち寄る。公園の一角にあるビオトープが、お気に入りの場所だ。電車の中や通りの喧騒とは別世界の静けさの中に身を置く。それが心地よい。
 大学で教員免許を取得したものの、公立の教員採用試験は受けなかった。いまは私立の通信制高校でメンターとして働いている。授業はすべてオンラインであり、彼女が教壇に立つことはない。メンターの役目は、レポートの締め切り管理や学習状況の共有、そしてネットや対面での相談対応だ。生徒の中には、不登校経験者も多い。
 この道を選んだのは、自身の経験ゆえだ。中学二年生の時、彼女自身も不登校になった。当時の担任は、家庭訪問や電話、メールといった形で、さまざまな方法で寄り添ってくれた。「学校へおいで」という言葉は、一度も言われなかった。その柔らかい関わりのおかげで、三年生になると少しずつ登校できるようになり、高校、大学と進学を果たした。あの担任のように、不登校を経験したり、学校に違和感を抱いたりしている生徒の力になりたい。そんな憧れが、この学校へ彼女を導いた。
 彼女が大切にしているのは、生徒同士の繋がりだ。登校のペースはそれぞれ違う。けれど、顔を合わせた際に「この子とあの子なら話が合いそう」と感じれば、一緒に昼食を取ったり、談話室で話したりする。自身の経験を振り返れば、人との関わりや対話が、どれほど自分をはげましてくれたかを知っているからだ。
 ビオトープの池。あめんぼが水面を滑ると、足元に同心円状の波紋が広がる。今日の食堂での対話と同じように、三匹のあめんぼの動きが、眠っていた水面の光を呼び覚まし、外側へと押し広げていく。まるで、彼女の大切にしている営みを肯定してくれるように。
*もう少し干せと天草もたらさる 岡田耕治

2026年6月14日日曜日

青梅のころがつてをり兄とゐて 渡邉美保

〈俳句物語〉 岡田耕治

青梅のころがつてをり兄とゐて 渡邉美保

 友だちと京都の神社を訪れたときのこと。境内には梅の実がたわわに実り、足元には落ちた青梅がいくつも転がっていた。友だちがその一つを拾い上げたので、「落ちた梅は、食べたり漬けたりしないほうが良いそうよ。そのままにしておくしかないのよ」と声をかけた。

「それじゃあ、この青梅たちは切ないわね」。

「でも、少しずつ土へ還っていくのよ。中には種から芽を出して、何年もかけて新しい梅の木へと育っていくこともあるわ」。

 ふと、この話を兄から教わったことを思い出した。口数の少なかった兄との、昔の会話だ。私が中学生、兄が高校生だった頃のこと。姉とは服の貸し借りをしたり歌手の話で盛り上がったりしていたが、兄とはいつの間にか会話が減っていた。そんな時期、近くの梅農家の前で、学校帰りの兄と偶然一緒になったことがある。

 中学三年生の最後の大会前、私はずっと目標にしていたレギュラーの座をかけて猛練習していたが、突然のスランプに見舞われ、思うようにトスが上げられなくなっていた。自分に代わって後輩がセッターとして生き生きと活躍する姿を、ベンチから眺める日々。人一倍努力を重ねてきたのに、今の状況をどうすることもできず、焦りばかりが募っていた。

 私は、部活での苦しい胸の内を兄に漏らした。兄は少し考えてから、「お前は努力家だからな」と言った。

「私ね、先生や友だちから努力家と言われるのが嫌なんだ」

「……」

「だって、才能がないから努力するしかないと思われているようで……」

 黙って聞いていた兄は、静かに答えた。

「そうか。でも、『努力する才能』があるということなんじゃないのか」

 この一言があったからこそ、私は引退までバレーボールを続けることができた。



香天集6月14日 渡邉美保、湯屋ゆうや、三好つや子ほか

香天集6月14日 岡田耕治 選

渡邉美保
青梅のころがつてをり兄とゐて
観音の十一面の青葉闇
悪人の手つきで抓む薔薇の虫
子が炊いて余白の多い豆ごはん

湯屋ゆうや
妹と同じ記憶の夏の鳩
砂日傘あれはわたしが立てたもの
仏壇は隠れるところ半夏生
ゴム印はまっすぐ押して花榊

三好つや子
じゃんけんで勝ちとる平和豆ご飯
字余りの時間を生きる花楝
昼顔の螺旋をえがく小声かな
悪人であること忘れ南瓜煮る

佐藤諒子
武具飾る男の子皆家を去り
海ほおずき鳴らす祖母の目少女の目
茄子炊くやトウバンジャンの隠し味
初夏の瓦光らせ大欅

上田真美
あめんぼや水紋の曲たけなわに
ベクトルが重ならぬまま夏来たる
眼に見えぬものら囁やく青葉なり
五月雨や川中島に血の匂う

橋本喜美子
幾百の目は一点に桜咲く
くつろぎし手足を空へ花辛夷
甘夏の香りとともに皮刻む
赤の中に一点の白花椿

中島孝子
空青の残雪の峰絵画とす
玻璃光りふるさと運ぶ黄水仙
風光りステップ音を弾ませる
閉園の遊具を染める花吹雪

北橋世喜子
春炬燵すっぽり被り息を吐く
風強し北の大地に熊目覚め
公園の改修を待つつくしんぼ
春寒し豆腐に湯気の立ちのぼり

半田澄夫
春眠や短編となる老の夢
御堂筋土曜の二人うららけし
人も良し我もまた良し花吹雪
今生の土産にせよと花明り

林おうはく
北斎のブルーを見つけ春夕焼
菜の花の沖ゆく舟を送りけり
行く春や十五年ものレクイエム
梅の香やあの日の記憶運びくる

石田敦子
春満月きれいですよとメール来る
満開の大樹を愛でつ落花浴ぶ
チューリップ親指姫が現れる
先にある供花に押し込む彼岸かな

上原晃子
せせらぎの音の生まれる春の川
風渡る足取りにして青き踏む
春菊の香りと苦味味わいぬ
大玻璃を満たしていたり庭椿

川合道子
どこからも箱根の山を風光る
お浸しにすり胡麻をかけ菜の花よ
花びらを気ままに開きチューリップ
子を祝う花道に添え桜草

市太勝人
春嵐見逃し再生忙しく
春波乱「タッチの呪い」強くなり
徹夜組仁川桜の雨楽し
甲子園ジェット風船復活す

〈俳句物語〉 岡田耕治
青梅のころがつてをり兄とゐて 渡邉美保
 友だちと京都の神社を訪れたときのこと。境内には梅の実がたわわに実り、足元には落ちた青梅がいくつも転がっていた。友だちがその一つを拾い上げたので、「落ちた梅は、食べたり漬けたりしないほうが良いそうよ。そのままにしておくしかないのよ」と声をかけた。
「それじゃあ、この青梅たちは切ないわね」。
「でも、少しずつ土へ還っていくのよ。中には種から芽を出して、何年もかけて新しい梅の木へと育っていくこともあるわ」。
 ふと、この話を兄から教わったことを思い出した。口数の少なかった兄との、昔の会話だ。私が中学生、兄が高校生だった頃のこと。姉とは服の貸し借りをしたり歌手の話で盛り上がったりしていたが、兄とはいつの間にか会話が減っていた。そんな時期、近くの梅農家の前で、学校帰りの兄と偶然一緒になったことがある。
 中学三年生の最後の大会前、私はずっと目標にしていたレギュラーの座をかけて猛練習していたが、突然のスランプに見舞われ、思うようにトスが上げられなくなっていた。自分に代わって後輩がセッターとして生き生きと活躍する姿を、ベンチから眺める日々。人一倍努力を重ねてきたのに、今の状況をどうすることもできず、焦りばかりが募っていた。
 私は、部活での苦しい胸の内を兄に漏らした。兄は少し考えてから、「お前は努力家だからな」と言った。
「私ね、先生や友だちから努力家と言われるのが嫌なんだ」
「……」
「だって、才能がないから努力するしかないと思われているようで……」
 黙って聞いていた兄は、静かに答えた。
「そうか。でも、『努力する才能』があるということなんじゃないのか」
 この一言があったからこそ、私は引退までバレーボールを続けることができた。

*水中のもはや蛇ではなくなりぬ 岡田耕治

2026年6月7日日曜日

父の書の余白美し夏の蝶 佐藤静香

〈俳句物語〉 岡田耕治

父の書の余白美し夏の蝶 佐藤静香

 石段を降りる私の足音に驚いたのか、突然大きな蝶が飛び立った。少し離れた場所に舞い降り、静かに羽を畳んだその瞬間、ふと父のことが蘇った。父は私が生まれた頃から書道塾に通い、晩年には書道展に出展するほど打ち込んでいた。公務員として人事を担当していた父は、家で仕事の話をすることは少なかったが、疲労の色を滲ませて帰宅することが多かった。

 小中学生の頃、父に書道を習ったこともあったが、私は絵に惹かれ、高校では美術を選択した。専門学校を経て、現在は病院で看護師として働いている。投薬や観察のミスが患者さんの命に直結する医療現場では、常に「間違えてはいけない」という緊張が続く。針を刺し、点滴を確認し、モニターを見守る日々の中で、心が休まる暇はない。

 父が大阪市立美術館へ誘ってくれたのは、私が月一、二回の水彩画教室に通い始めた頃だった。年代も職業も異なるメンバーが思い思いに絵筆を走らせる、その静かな時間を私は大切に思うようになった。

 父のことを思い出したので、部屋に飾る書を替えようと桐の箱を開けたとき、一枚の絵はがきが出てきた。父が美術館で熱心に見入っていた作品と同じものだ。はがきには「上村松園《晩秋》」とある。若い女性が縁側の障子を閉めている絵だと思っていたが、よく見ると障子の破れを花形の紙で繕っているところだった。

 これまで女性の髪型や青い着物、緑の帯ばかりに目が行っていたが、父が見つめていたのは、女性の背後に広がる真っ白な障子だったのかもしれない。日々の激務をこなす中で、私もまた、その静謐な白い空間に強く惹かれるようになっている。

 私が水彩画に惹かれ、父が書道を極めようとしたのも、この「余白」を求めていたからではないか。そう思って改めて父の書を見ると、これまで黒い墨で書かれた文字ばかりを追っていたことに気づかされる。墨を走らせることは、同時に白い余白の形をデザインすることでもある。

 この余白にこそ、父の思いが深く刻まれているにちがいない。