2026年7月19日日曜日

塩舐める牛と目が合う炎天下 三好広一郎

〈俳句物語〉 岡田耕治

塩舐める牛と目が合う炎天下 三好広一郎

 毎年夏、大阪から高速バスに揺られ、淡路島の祖父の家へと向かう。バスを降り、島特有の風に混じる微かな牛の匂いを嗅ぐと、ぼくの夏が始まる。祖父が育てているのは、ブランド和牛の素牛となる但馬牛だ。

 大学受験を控えたこの夏、午前中は牧場を手伝い、午後からは涼しい部屋で机に向かう。それが親と交わした約束だった。朝七時、祖父は牛たちの健やかな成長を願い、黙々と糞尿をかき出し、新しい藁を敷き詰める。私もそれにならい、水飲み場を磨き上げ、祖父が配合したエサを運ぶ。その傍らには"鉱塩"と呼ばれる大きな塩の塊を添える。牛たちは自身の体調や暑さに合わせ、必要な分だけを自らの意思で舐めとるのだという。

 "足りないやつが、足りない時に、好きなだけ舐める"。祖父の言葉通り、エサを食べ終えた牛たちがザラザラとした大きな舌で鉱塩を舐めている。その時、ふと一頭の牛と目が合った。哲学的で、潤んでいて、それでいてはげしいまでの生命力を宿した瞳。その眼差しは、猛暑の中で祖父と働くぼくに、"お前がいてくれるから、じいさんの寿命も少し延びるよ"と語りかけているように感じられた。

 外は午前中だというのに気温はぐんぐんと上昇し、三十度を軽々と超えていく。温暖化による猛暑と高騰するエサ代。祖父と祖母は、どこへ出かけることもなく、ただここで牛たちと向き合い続けている。あの一途な瞳で見つめ返されたのは、そんな二人の苦労と営みを、牛たちは一番近くで見守ってきたからにちがいない。


香天集7月19日 三好広一郎、谷川すみれ、柴田亨、湯屋ゆうや他

香天集7月19日 岡田耕治 選

三好広一郎
塩舐める牛と目が合う炎天下
枯あじさい先祖代々貧乏性
アメリカは今日は日曜梅雨明ける
白日傘合う人とだけ会いに行く

谷川すみれ
椎若葉より反撃の烏来る
行水や男のままの顔を拭く
万緑や泣く子の不思議な言葉
どくだみの一途というは哀しけれ

柴田亨
短夜や杖音のこと悔いしこと
濁世を切り裂いてくる夏燕
夏の果経木流しを句点とす
蠢きぬ鶏糞を干す祖父の汗

湯屋ゆうや
一本の角ばっている心太
怯えとはやわらきものゼラニウム
遠くまで見えずともよいサングラス
含羞草まだ閉じている夜明かな

木村博昭
頑張る子頑張らない子雨蛙
晩年の長き時間や山椒魚
しみじみと人生端居していたる
母が見え弟が泣く青田風

古澤かおる
パプリカやビタミンCが色に出て
小指まで日焼けしている税理士
静かなる脈診る時や朝焼くる
夏日差すキャップのつばの折癖に

安部いろん
少年が翼を余す雲の峰
線香花火あるとき大人への焦がれ
隕石の衝突隠す大西日
二重虹消え青空が呼吸する

嶋田静
朝から海風通り夏座敷
夏空や石積みダムの古城にて
浴衣着て夜に立つ市を待っており
なすきゅうりもたらす兄の笑顔かな

前塚かいち
薔薇園のマリア・カラスと名を記す
時計草時を忘れるところかな
一つずつつまんで分かつさくらんぼ
戦死せし父の恋しき忘草

宮下揺子
生き延びて両手いっぱい紫蘇を摘む
沙羅落下右向け右と生きてきた
会話なき夫婦を繋ぐ蓮の花
ログインは夫の顔よ夏至の夜

佐藤浩章
溜め池の黙深かりし極暑かな
大筆より落ち墨汁と玉の汗
冷酒に刻印映ゆるバカラかな
捩花はDNAのらせんなり

秋吉正子
飛び立てば帰れぬ知覧夾竹桃
このシーン前に読んだよ蝸牛
運玉に入れと願う梅雨晴間
近道は線路をまたぐ千日紅

谷村敏子
部屋中に辣韮匂う朝までも
仏壇の義父にも五粒さくらんぼ
まず描かん枝付枇杷の艶やかを
朝の日に緋色となりぬ目高の子

山内宏子
京の夏ひたすら歩きおばんざい
異国の夏さむらいブルー疾走す
木星と金星並ぶ夏の月
嵐去り梅の実一つ道にあり

西前照子
里芋や暑さをしのぐ藁を掛け
猫の子よ親が帰らず泣き交わす
赤紫蘇ジュースへ紫蘇を戻しけり
落花生収穫願い草を引く

大里久代
のねじ花やくるくる回り始めけり
一輪も咲かず紫陽花繁りけり
獅子舞に頭がぶられ厄払い
台風の次から次とせめてくる

北岡昌子
帚持つ穴から蜂に刺されけり
あじさいをクラフト編みで作りおり
おはらいの終わりし茅の輪くぐりけり
お茶席や牡丹の花のお菓子出て

〈俳句物語〉 岡田耕治
塩舐める牛と目が合う炎天下 三好広一郎

 毎年夏、大阪から高速バスに揺られ、淡路島の祖父の家へと向かう。バスを降り、島特有の風に混じる微かな牛の匂いを嗅ぐと、ぼくの夏が始まる。祖父が育てているのは、ブランド和牛の素牛となる但馬牛だ。
 大学受験を控えたこの夏、午前中は牧場を手伝い、午後からは涼しい部屋で机に向かう。それが親と交わした約束だった。朝七時、祖父は牛たちの健やかな成長を願い、黙々と糞尿をかき出し、新しい藁を敷き詰める。私もそれにならい、水飲み場を磨き上げ、祖父が配合したエサを運ぶ。その傍らには"鉱塩"と呼ばれる大きな塩の塊を添える。牛たちは自身の体調や暑さに合わせ、必要な分だけを自らの意思で舐めとるのだという。
 "足りないやつが、足りない時に、好きなだけ舐める"。祖父の言葉通り、エサを食べ終えた牛たちがザラザラとした大きな舌で鉱塩を舐めている。その時、ふと一頭の牛と目が合った。哲学的で、潤んでいて、それでいてはげしいまでの生命力を宿した瞳。その眼差しは、猛暑の中で祖父と働くぼくに、"お前がいてくれるから、じいさんの寿命も少し延びるよ"と語りかけているように感じられた。
 外は午前中だというのに気温はぐんぐんと上昇し、三十度を軽々と超えていく。温暖化による猛暑と高騰するエサ代。祖父と祖母は、どこへ出かけることもなく、ただここで牛たちと向き合い続けている。あの一途な瞳で見つめ返されたのは、そんな二人の苦労と営みを、牛たちは一番近くで見守ってきたからにちがいない。

*じいさんの大きさを超す跣かな 岡田耕治

2026年7月12日日曜日

月明の母より長く踊るなり 曾根 毅

〈俳句物語〉岡田耕治

月明の母より長く踊るなり 曾根毅   句集『十翼』より

 盆踊りの喧騒の中、母が踊りの輪へと僕の手を引いた。母の浴衣は涼しげな藍色に白の小紋柄。帯は赤く、白の髪飾りがアクセントになっている。台所で使い古したベージュのエプロンをつけ、髪を適当に束ねては洗剤やだしの匂いを漂わせている、そんな日常の母とは違う姿だ。

 気乗りはしなかったが、母の浴衣姿とふわりと鼻をかすめた化粧品の匂いに促され、ぎこちなく踊りの輪へ加わる。母の背中を追い、「右足、左足、下がる、進む」という声に合わせ、僕の体も次第にリズムを刻み始めた。

 「母さんは先に帰るよ」

 肩を叩かれて振り返ると、母の後ろに大きな月がかかっていた。一際明るいのは、この月のせいかもしれない。母の柔らかな表情を見ながら、「ああ、もう少し踊ってから帰る」と僕は答えた。

 しばらくして、母が抜けたスペースに、一人の若い女性が滑り込んできた。落ち着いた深い紺地の浴衣には、大輪の花があしらわれている。提灯の明かりを吸い込んで金色に光る帯が、彼女の佇まいを引き締めていた。まとめられた髪から下がる紫の髪飾りが夜風に揺れるたび、周囲の空気が清められるようだ。

 彼女の軽やかな足さばきと、指先まで意志の宿るような所作。僕は無意識のうちに、彼女の背中をなぞるように踊り続けていた。楽しげに、けれどどこか哀しみを湛えたその横顔は、踊りの輪にありながら、彼女の周りだけが別のカプセルのように静まり返っていた。

 夜の十時を過ぎ、輪は小さくなった。それでも熱気は冷めやらない。僕の体はいつしか意識を超え、太鼓のリズムそのものになっていた。彼女もまた、休むことなく踊り続けている。初めに見たときよりも、少しだけ浴衣の襟元がゆるんでいるように見えた。

 翌朝、青年団の手伝いで提灯を畳んだが、そこにはもう彼女の姿はなかった。小さな町のこと、いつかまたどこかで会えると思ったが、まだ一度も顔を合わせたことはない。九月になっても、僕は時折あの月夜の踊りを思い出している。



香天集7月12日 加地弘子、三好つや子、浅海紀代子ほか

香天集7月12日 岡田耕治 選

加地弘子
蓮の花淵のはじめに手を繋ぎ
梅雨の蝶バス待つ人のパイプ椅子
鴉の子四十年を生きる脚
万緑やおにぎり三個腹に入れ

三好つや子
右足が起きて来ないの梅雨茸
蝉声のいっせいに止む白紙かな
眼にも黙秘権ありサングラス
鳳仙花少し嫌いで少し好き

浅海紀代子
それぞれに言い分のある茂りかな
白薔薇もののあわれを拒みけり
子のことを離れて気づくカーネーション
金魚草亡き子にも来る誕生日

佐藤静香
籐寝椅子足の指先より異界
観音の知恵のろうそく花は蓮
鳥居くぐる京紫の絽の匂ひ
短夜や終りは迅き砂時計

佐藤諒子
草刈るや息を緑に固められ
誇らしく菜園照らし茄子の花
売られゆく四角西瓜の肩の張り
涼風は極楽よりの一筆に

俎石山
梅干に押しつぶされて目が醒める
冥界に遊び続ける夏帽子
鍵っ子が帰れるところ稲荷寿司
梅干の種を吸ったか烏の仔

楽沙千子
音もなく水に広がる半夏雨
絵画展出てほっとする若葉かな
立付の悪き網戸をなだめおり
願うことありてくぐりし茅の輪かな

中島孝子
命名に応え溢るる桜草
桜草零る花びら水に咲く
園児なき砂場を包む藤簾
香をも摘み両手にごろん蕗の薹

北橋世喜子
春雨に身じろぎもせぬ青虫よ
眠くなるまじないをかけ小判草
倒れたる木に再生の若葉萌ゆ
袖通しゆけり五月の一重にて

半田澄夫
永き夢弥生遺跡の蓮の花
田植歌弥生遺跡に聞こえくる
キャンバスのイエロー仄か五月空
尾灯へとずっと手を振る朧月

橋本喜美子
一夜にて新樹となれる並木かな
大鍋にたぎる筍朝の厨
彼方此方の風流れくる牡丹かな
夕日さす大樹の下の花いばら

上原晃子
藤房の色と香揺らす羽音かな
日を受けて艶やわらかき柿若葉
手入れなき庭の紫蘭の咲き揃う
墳丘のうぐいす鳴けり朝の空

石田敦子
黄砂降りミサイルの飛ぶ一日かな
藤の花マスクを掠め香り来る
つつじ燃ゆ白とピンクが混じり合ひ
鶯の鳴き声を聞くランチかな

川合道子
「上手だね」うぐいすに声かけており
新玉葱抜きたてもらうサラダかな
新緑や授かり物と山歩く
口いっぱい腹のふくらむ鯉のぼり

林おうはく
紫陽花の迷路に入る万華鏡
寂しさやシャッター通り墓じまい
初夏の風受けてベランダ満艦飾
こいのぼり吹く風ほどの元気かな

市太勝人
蜃気楼万博ブームまだ続く
新緑やドラマセットの鎧にも
明と暗2センチにあり春の雨
木仕事のゴールデンウィーク一瞬に


〈俳句物語〉岡田耕治
月明の母より長く踊るなり 曾根毅   句集『十翼』より

 盆踊りの喧騒の中、母が踊りの輪へと僕の手を引いた。母の浴衣は涼しげな藍色に白の小紋柄。帯は赤く、白の髪飾りがアクセントになっている。台所で使い古したベージュのエプロンをつけ、髪を適当に束ねては洗剤やだしの匂いを漂わせている、そんな日常の母とは違う、少しよそゆきの姿だ。
 気乗りはしなかったが、母の浴衣姿とふわりと鼻をかすめた化粧品の匂いに促され、ぎこちなく踊りの輪へ加わる。母の背中を追い、「右足、左足、下がる、進む」という声に合わせ、僕の体も次第にリズムを刻み始めた。
 「母さんは、ちょっと休憩」
 母と叔母が輪を離れ、櫓の下のパイプ椅子へと引き上げていく。二人が抜けたスペースに、ふと一人の若い女性が滑り込んできた。
 落ち着いた深い紺地の浴衣に、大輪の花があしらわれている。提灯の明かりを吸い込んで金色に光る帯が、彼女の佇まいを引き締めていた。まとめられた髪から揺れる紫の髪飾りが、夜風に揺れるたび、周囲の空気がさっと清められるようだった。彼女の軽やかな足さばきと、指先まで意志の宿るような所作。僕は無意識のうちに、彼女の背中をなぞるように踊り続けていた。
 「母さんは先に帰るよ」
 肩を叩かれて振り返ると、母の後ろに大きな月がかかっていた。一際明るいのは、この月のせいかもしれない。母の柔らかな表情を見ながら、「ああ、もう少し踊ってから帰る」と僕は答えた。
 再び前へ向き直ると、櫓から響く太鼓の音に合わせ、彼女がしなやかに指先を天へ突き上げた。白く細い腕が夜空を切り取る。楽しげに、けれどどこか哀しみを湛えたその横顔は、雑踏の中にありながら、彼女の周りだけが別のカプセルのように静まり返っていた。
 夜の十時を過ぎ、輪は小さくなった。それでも熱気は冷めやらない。僕の体はいつしか意識を超え、太鼓のリズムそのものになっていた。彼女もまた、休むことなく踊り続けている。初めに見たときよりも、少しだけ浴衣の襟元がゆるんでいるように見えた。
 翌朝、青年団の手伝いで提灯を畳んだが、そこにはもう彼女の姿はなかった。小さな町のこと、いつかまたどこかで会えるだろう。そう思いながら、九月になっても、僕は時折あの月夜の踊りを思い出している。
*舞い包む光の中の水馬 岡田耕治

2026年7月5日日曜日

バーナードリーチの皿よ葛桜 長谷川洋子

〈俳句物語〉 岡田耕治

バーナードリーチの皿よ葛桜  長谷川洋子

主)今日はわざわざ来てくれてありがとう。雨、大丈夫だった?

客)はい、電車に乗ってるときは降ってましたけど、駅からここまで傘は入りませんでした。

主)それはよかった。ポットのお湯で略式だけれど、お茶を点てるわね。まずは、お菓子をどうぞ。

客)わあ、これは何と言うお菓子ですか。透き通っていて、桜色…!

主)葛桜(くずざくら)というの。葛の根を砕いて絞ったデンプンから作られた、半透明の葛生地。その中にこし餡を包み、塩漬けの桜の葉を巻いた和菓子よ。

客)初めていただきます。それに、このお皿。ぽってりとした厚みがあって、なんだか土の温もりを感じます。

主)それはバーナード・リーチというイギリスの陶芸家のお皿なの。私、先月まで入院してたでしょ。退院してから、食器棚を整理していて、今日のために出しておいたの。

客)このお皿と和菓子の組み合わせ、歓迎されているみたいです。切れ目を入れるのがもったいないほど。わあ、上品な甘さですね。

主)では、お茶もどうぞ。

客)お点前(てまえ)頂戴いたします。

主)よかったら、このお皿、ペアで貰ってくれるかしら。

客)え、いいんですか。

主)このお皿は、よく使い込んだ方がより美しくなると思うの。私は、残り時間のカウントダウンに入っているけど、あなたはこれからでしょう。

客)ペアで! 今付き合ってる彼とこのお皿を使いながら、新しい日々を重ねなさい、そんなメッセージですね。では、心していただきます。






香天集7月5日 渡邉美保、長谷川洋子、森谷一成、浅海紀代子ほか

香天集7月5日 岡田耕治 選

渡邉美保
かたつむりちちは朝より無言なる
足元の水揺れているえごの花
鮎飯の噴く寸前よ火を細く
更かへて白波を見に突堤へ

長谷川洋子
民芸の絵皿にすわりわらび餅
蟻腰の茶杓を見つめ夏椿
水羊羹ラリックの皿光り出し
バーナードリーチの皿よ葛桜

森谷一成
青嵐プラスティックの脈にふれ
短夜のくびれを抜けん砂時計
 花谷 清 記念講演一句 
真夏日の十七音をベクトルに
一坪は六尺四方三尺寝

浅海紀代子
手の平に溶けんばかりの子猫かな
生きるには普通を選ぶ花はこべ
わすれな草忘れられたる身もよけれ
漂うているのは私かすみ草

釜田きよ子
捩花も我もねじれている真昼
極楽を覗いてきたる大昼寝
梅雨深む眼鏡にルーペ重ねけり
夢の世を目差せり今日の朝顔は

宮崎義雄
香を散らす酒に更けゆく梅雨の果
土塊を撫でては叩き扇風機
青時雨リハビリ服の一張羅
故郷や祭囃子に会いにゆく

松田和子
病葉の無行となりし余白かな
信楽の煙突静か青田風
万緑や石のベンチの光り合い
くちなしの花に目を閉ず朝の香よ

牧内登志雄
苔青し五百羅漢の姦しく
尺蠖の明日を刻む高さにて
大筆のぐいと跳ねたる五月富士
澪筋に浮巣集めてゐる夕べ

岡田ヨシ子
三人で語り合いたる木暮かな
焼うどん涼しき部屋に届けられ
さくらんぼ小学四年の問を解く
波止場から飛びこむ水着姿にて

吉丸房江
長靴の玄関狭し梅雨の入り
幼の日集めて口へさくらんぼ
召しませや糸島野菜の土の味
あがりたる梅雨に大地の匂い立つ

垣内孝雄
ででむしや独りぼっちの帰り道
一冊のアルバム開く蛍の夜
夏祭ソース焼きそば半分こ
秋初月風と光と波の音

〈俳句物語〉 岡田耕治
バーナードリーチの皿よ葛桜  長谷川洋子

主)今日はわざわざ来てくれてありがとう。雨、大丈夫だった?
客)はい、電車に乗ってるときは降ってましたけど、駅からここまで傘は入りませんでした。
主)それはよかった。ポットのお湯で略式だけれど、お茶を点てるわね。まずは、お菓子をどうぞ。
客)わあ、これは何と言うお菓子ですか。透き通っていて、桜色…!
主)葛桜(くずざくら)というの。葛の根を砕いて絞ったデンプンから作られた、半透明の葛生地。その中にこし餡を包み、塩漬けの桜の葉を巻いた和菓子よ。
客)初めていただきます。それに、このお皿。ぽってりとした厚みがあって、なんだか土の温もりを感じます。
主)それはバーナード・リーチというイギリスの陶芸家のお皿なの。私、先月まで入院してたでしょ。退院してから、食器棚を整理していて、今日のために出しておいたの。
客)このお皿と和菓子の組み合わせ、歓迎されているみたいです。切れ目を入れるのがもったいないほど。わあ、上品な甘さですね。
主)では、お茶もどうぞ。
客)お点前(てまえ)頂戴いたします。
主)よかったら、このお皿、ペアで貰ってくれるかしら。
客)え、いいんですか。
主)このお皿は、よく使い込んだ方がより美しくなると思うの。私は、残り時間のカウントダウンに入っているけど、あなたはこれからでしょう。
客)ペアで! 今付き合ってる彼とこのお皿を使いながら、新しい日々を重ねなさい、そんなメッセージですね。では、心していただきます。

*夏帽子君のかたちで現れる 岡田耕治

2026年6月28日日曜日

美しい気配の一つ枇杷熟れる 古澤かおる

〈俳句物語〉 岡田耕治

美しい気配の一つ枇杷熟れる 古澤かおる

 大学3回生の就職活動。二十社ほど受けた面接の帰り道、彼女はいつも、自分という存在が社会に必要とされていないような心細さに包まれていた。「あなたの強みは?」という問いに答えるたび、等身大の自分が見失われていくような気がした。最終面接まで進んでは、あと一歩で届かない。その繰り返しの中で、彼女の心に自己否定の闇が広がっていった。

 4回生になり、幼い頃からの夢だった教員への道を選び直した時、キャリア支援の窓口でふと目に留まったのが、ある離島の講師募集チラシだった。「教員免許があれば、まずはオンライン面接から」。その言葉が、強張っていた彼女の心を解いてくれた。今の自分をそのまま受け入れてくれる場所が、海の向こうにあるのかもしれない。そんな予感に背中を押され、彼女は新しい世界へ一歩を踏み出した。

 春、大きなキャリーバッグと共に降り立った島は、光に満ちていた。下宿先は、七十代の温和な老夫婦が営む離れ。本島で暮らす子どもたちを思うご夫婦は、彼女を本当の娘のように、「よおきんさったね」と温かいお茶と「かんころ餅」で迎えてくれた。潮騒の音を聞きながら眠りにつくと、かつての焦燥感は、その音に溶けていくようだった。

 全校児童二十人の小学校は、家族のような温もりに溢れていた。彼女が受け持ったのは5年生。初めての授業、緊張で震える彼女の手を包み込んだのは、子どもたちの真っ直ぐな瞳と、先輩教員たちの「大丈夫、みんなで見守っているから」という優しい言葉だった。失敗を恐れていたかつての自分はいつの間にか消え、子どもたちの成長を共にする日々に、彼女は自分自身の「強み」を、肩書きではなく心の中に見出し始めていた。

 放課後、校舎から見える海はエメラルドグリーンからコバルトブルーへと表情を変え、彼女の心を癒していく。夕暮れ時、空がピンクやオレンジの優しいグラデーションに染まる頃、彼女は自分がこの島の一部になれたような安らぎを感じるようになっていた。

 ある日の夕食後、大家さんが玄関に置いてくれた新鮮な野菜を手に外へ出ると、清流のほとりで蛍が舞っていた。静かに、けれど力強く明滅する光に見惚れていると、「先生、これ食べんね!」と明るい声が響いた。

 担任しているケンくんが差し出してくれたのは、夕暮の光に温まった、もぎたての枇杷だった。庭先に目をやると、橙色の実は、初夏の光を蓄えてふっくらと輝いていた。