2026年7月26日日曜日

耳朶を嬉しがらせる夏帽子 柏原 玄

〈俳句物語〉 岡田耕治

耳朶を嬉しがらせる夏帽子 柏原 玄

 妻を亡くして八年が過ぎた。何処へ行くにもいつも一緒だったから、別れた直後は「なぜ自分だけが残されたのか」という深い脱力感に苛まれたものだ。一周忌を過ぎ、「いつまでも沈んでいては妻が心配する」と自分に言い聞かせ、これからの人生を模索してきた。とはいえ、ふとした瞬間に、共有相手のいない孤独が胸を突くことは今も変わらない。

 二人で出掛けた先の思い出が蘇ったり、耳許で囁く妻の声が聞こえたりするたび、今も静かな切なさが胸をかすめる。けれど、七回忌を過ぎた頃からだろうか、妻は「失われた人」から、私の中でいつまでも生き続ける「かけがえのない存在」へと、静かに姿を変えたように思う。

 今日の猛暑の中、友人からカラオケに誘われた。若い頃は妻の装いに合わせてシャツやジャケットを選び直し、お洒落を楽しんだものだが、今ではお気に入りを丁寧に着回すようになった。髪が薄くなり、日除けのために被り始めた帽子も、今や隠すためではなく、自分を整えるための相棒だ。この帽子を被る時、かつての喪失感とは違う、新しい誇りのようなものが宿るのも、七回忌を過ぎた頃からだ。

 今日選んだのは、つばが控えめなストローハット。被った瞬間、庇(ひさし)が作る日陰が耳元までスッと広がる。帽子の編み目から抜ける微かな風が、ふと私の耳朶(みみたぶ)をかすめていく。

「お父さん、今日の帽子、似合ってるわよ」

 まるで妻が隣で微笑んでいるかのようなその声を聞きながら、私は少し背筋を伸ばし、駅へと続く道を歩き出した。



香天集7月26日 柏原玄、夏礼子、平木桂、春田真理子ほか

香天集7月26日 岡田耕治 選

柏原 玄
耳朶を嬉しがらせる夏帽子
落日へ一日をひろげひつじ草
滝壺に一昨々日をたずねけり
二十年前の息せり夏衣

夏 礼子
グラジオラススマートフォンに皆向かう
待ち兼ねる雨の匂いのかたつむり
立ち位置のぼやけてきたり七変化
梅雨しとど単3乾電池が切れる

平木 桂
今はもう控えめでよし濃紫陽花
首垂れカサブランカと謹慎中
石畳猫とたゆたう白夜かな
箴言を薬味に加へ冷素麺

春田真理子
音沙汰の無きは安寧冷奴
葉陰から見守られいし桜桃
なぜの後なぜを重ねて星月夜
電灯を消して蛍の籠に居る

上田真美
パンかじる丸顔となるダリアかな
艶めきぬ浴衣の柄の替わるごと
二本杉雲の峰をも貫けり
素っ気なさアガパンサスの蒼ほどの

浅野千代
箱庭の砂に葬る人間ども
眠たい日水草の花かわいがり
怒鳴り声地球に数多蝉の穴
世の憂きを掻き消す音になりし蝉

前藤宏子
生きている限りは耐えるこの極暑
神官のとおり茅の輪をくぐりけり
サングラス長き余生を暇なく
独り居の今朝は白桃ときめる

森本知美
炎天にチャイム市民の減るばかり
自転車が風を起こせる青田かな
瓜の蔓庭木を登り詰めし朝
平家の血護る集落滴りぬ

松並美根子
夏蝶の話ばかりで診てくれず
リズム良くでんぐり返り天道虫
手花火の匂いを残し鎮まりぬ
朝顔の数えて残す日記かな

目美規子
故郷へ帰りたくなる土用入
待ち合わす駅で目が合う夏帽子
キャンピングカーおんな一人の夏の旅
登校の声をかき消す蝉の声

木南明子
風に乗り塩辛蜻蛉キラキラす
夏蝶や予防接種を受けに行く
真夜中のアイスコーヒー秘密めく
夏燕施回住所変更す

安田康子
西瓜喰う心も丸くなりにけり
梅雨最中検査結果の封書くる
夏休み駄菓子屋の中五、六人
梅雨明ける耳遠き友唄うまし

吉丸房江
百日紅遠い約束せぬように
小判草ゆっくりと揺れ下がりけり
空映す植田となりし我が里よ
糸島富士ひと日を語る夕陽かな

金重こねみ
帰省子は吾を太らせ居なくなる
是非もなし梅雨の最中の医者通い
クーラー止め窓全開の深呼吸
全肯定出来ぬ生き様土用東風

〈俳句物語〉 岡田耕治
耳朶を嬉しがらせる夏帽子 柏原 玄

 妻を亡くして八年が過ぎた。何処へ行くにもいつも一緒だったから、別れた直後は「なぜ自分だけが残されたのか」という深い脱力感に苛まれたものだ。一周忌を過ぎ、「いつまでも沈んでいては妻が心配する」と自分に言い聞かせ、これからの人生を模索してきた。とはいえ、ふとした瞬間に、共有相手のいない孤独が胸を突くことは今も変わらない。
 二人で出掛けた先の思い出が蘇ったり、耳許で囁く妻の声が聞こえたりするたび、今も静かな切なさが胸をかすめる。けれど、七回忌を過ぎた頃からだろうか、妻は「失われた人」から、私の中でいつまでも生き続ける「かけがえのない存在」へと、静かに姿を変えたように思う。
 今日の猛暑の中、友人からカラオケに誘われた。若い頃は妻の装いに合わせてシャツやジャケットを選び直し、お洒落を楽しんだものだが、今ではお気に入りを丁寧に着回すようになった。髪が薄くなり、日除けのために被り始めた帽子も、今や隠すためではなく、自分を整えるための相棒だ。この帽子を被る時、かつての喪失感とは違う、新しい誇りのようなものが宿るのも、七回忌を過ぎた頃からだ。
 今日選んだのは、つばが控えめなストローハット。被った瞬間、庇(ひさし)が作る日陰が耳元までスッと広がる。帽子の編み目から抜ける微かな風が、ふと私の耳朶(みみたぶ)をかすめていく。
「お父さん、今日の帽子、似合ってるわよ」
 まるで妻が隣で微笑んでいるかのようなその声を聞きながら、私は少し背筋を伸ばし、駅へと続く道を歩き出した。

*ジャスミンの香を引き受ける別れかな 岡田耕治

2026年7月19日日曜日

塩舐める牛と目が合う炎天下 三好広一郎

〈俳句物語〉 岡田耕治

塩舐める牛と目が合う炎天下 三好広一郎

 毎年夏、大阪から高速バスに揺られ、淡路島の祖父の家へと向かう。バスを降り、島特有の風に混じる微かな牛の匂いを嗅ぐと、ぼくの夏が始まる。祖父が育てているのは、ブランド和牛の素牛となる但馬牛だ。

 大学受験を控えたこの夏、午前中は牧場を手伝い、午後からは涼しい部屋で机に向かう。それが親と交わした約束だった。朝七時、祖父は牛たちの健やかな成長を願い、黙々と糞尿をかき出し、新しい藁を敷き詰める。私もそれにならい、水飲み場を磨き上げ、祖父が配合したエサを運ぶ。その傍らには"鉱塩"と呼ばれる大きな塩の塊を添える。牛たちは自身の体調や暑さに合わせ、必要な分だけを自らの意思で舐めとるのだという。

 "足りないやつが、足りない時に、好きなだけ舐める"。祖父の言葉通り、エサを食べ終えた牛たちがザラザラとした大きな舌で鉱塩を舐めている。その時、ふと一頭の牛と目が合った。哲学的で、潤んでいて、それでいてはげしいまでの生命力を宿した瞳。その眼差しは、猛暑の中で祖父と働くぼくに、"お前がいてくれるから、じいさんの寿命も少し延びるよ"と語りかけているように感じられた。

 外は午前中だというのに気温はぐんぐんと上昇し、三十度を軽々と超えていく。温暖化による猛暑と高騰するエサ代。祖父と祖母は、どこへ出かけることもなく、ただここで牛たちと向き合い続けている。あの一途な瞳で見つめ返されたのは、そんな二人の苦労と営みを、牛たちは一番近くで見守ってきたからにちがいない。


香天集7月19日 三好広一郎、谷川すみれ、柴田亨、湯屋ゆうや他

香天集7月19日 岡田耕治 選

三好広一郎
塩舐める牛と目が合う炎天下
枯あじさい先祖代々貧乏性
アメリカは今日は日曜梅雨明ける
白日傘合う人とだけ会いに行く

谷川すみれ
椎若葉より反撃の烏来る
行水や男のままの顔を拭く
万緑や泣く子の不思議な言葉
どくだみの一途というは哀しけれ

柴田亨
短夜や杖音のこと悔いしこと
濁世を切り裂いてくる夏燕
夏の果経木流しを句点とす
蠢きぬ鶏糞を干す祖父の汗

湯屋ゆうや
一本の角ばっている心太
怯えとはやわらきものゼラニウム
遠くまで見えずともよいサングラス
含羞草まだ閉じている夜明かな

木村博昭
頑張る子頑張らない子雨蛙
晩年の長き時間や山椒魚
しみじみと人生端居していたる
母が見え弟が泣く青田風

古澤かおる
パプリカやビタミンCが色に出て
小指まで日焼けしている税理士
静かなる脈診る時や朝焼くる
夏日差すキャップのつばの折癖に

安部いろん
少年が翼を余す雲の峰
線香花火あるとき大人への焦がれ
隕石の衝突隠す大西日
二重虹消え青空が呼吸する

嶋田静
朝から海風通り夏座敷
夏空や石積みダムの古城にて
浴衣着て夜に立つ市を待っており
なすきゅうりもたらす兄の笑顔かな

前塚かいち
薔薇園のマリア・カラスと名を記す
時計草時を忘れるところかな
一つずつつまんで分かつさくらんぼ
戦死せし父の恋しき忘草

宮下揺子
生き延びて両手いっぱい紫蘇を摘む
沙羅落下右向け右と生きてきた
会話なき夫婦を繋ぐ蓮の花
ログインは夫の顔よ夏至の夜

佐藤浩章
溜め池の黙深かりし極暑かな
大筆より落ち墨汁と玉の汗
冷酒に刻印映ゆるバカラかな
捩花はDNAのらせんなり

秋吉正子
飛び立てば帰れぬ知覧夾竹桃
このシーン前に読んだよ蝸牛
運玉に入れと願う梅雨晴間
近道は線路をまたぐ千日紅

谷村敏子
部屋中に辣韮匂う朝までも
仏壇の義父にも五粒さくらんぼ
まず描かん枝付枇杷の艶やかを
朝の日に緋色となりぬ目高の子

山内宏子
京の夏ひたすら歩きおばんざい
異国の夏さむらいブルー疾走す
木星と金星並ぶ夏の月
嵐去り梅の実一つ道にあり

西前照子
里芋や暑さをしのぐ藁を掛け
猫の子よ親が帰らず泣き交わす
赤紫蘇ジュースへ紫蘇を戻しけり
落花生収穫願い草を引く

大里久代
のねじ花やくるくる回り始めけり
一輪も咲かず紫陽花繁りけり
獅子舞に頭がぶられ厄払い
台風の次から次とせめてくる

北岡昌子
帚持つ穴から蜂に刺されけり
あじさいをクラフト編みで作りおり
おはらいの終わりし茅の輪くぐりけり
お茶席や牡丹の花のお菓子出て

〈俳句物語〉 岡田耕治
塩舐める牛と目が合う炎天下 三好広一郎

 毎年夏、大阪から高速バスに揺られ、淡路島の祖父の家へと向かう。バスを降り、島特有の風に混じる微かな牛の匂いを嗅ぐと、ぼくの夏が始まる。祖父が育てているのは、ブランド和牛の素牛となる但馬牛だ。
 大学受験を控えたこの夏、午前中は牧場を手伝い、午後からは涼しい部屋で机に向かう。それが親と交わした約束だった。朝七時、祖父は牛たちの健やかな成長を願い、黙々と糞尿をかき出し、新しい藁を敷き詰める。私もそれにならい、水飲み場を磨き上げ、祖父が配合したエサを運ぶ。その傍らには"鉱塩"と呼ばれる大きな塩の塊を添える。牛たちは自身の体調や暑さに合わせ、必要な分だけを自らの意思で舐めとるのだという。
 "足りないやつが、足りない時に、好きなだけ舐める"。祖父の言葉通り、エサを食べ終えた牛たちがザラザラとした大きな舌で鉱塩を舐めている。その時、ふと一頭の牛と目が合った。哲学的で、潤んでいて、それでいてはげしいまでの生命力を宿した瞳。その眼差しは、猛暑の中で祖父と働くぼくに、"お前がいてくれるから、じいさんの寿命も少し延びるよ"と語りかけているように感じられた。
 外は午前中だというのに気温はぐんぐんと上昇し、三十度を軽々と超えていく。温暖化による猛暑と高騰するエサ代。祖父と祖母は、どこへ出かけることもなく、ただここで牛たちと向き合い続けている。あの一途な瞳で見つめ返されたのは、そんな二人の苦労と営みを、牛たちは一番近くで見守ってきたからにちがいない。

*じいさんの大きさを超す跣かな 岡田耕治

2026年7月12日日曜日

月明の母より長く踊るなり 曾根 毅

〈俳句物語〉岡田耕治

月明の母より長く踊るなり 曾根毅   句集『十翼』より

 盆踊りの喧騒の中、母が踊りの輪へと僕の手を引いた。母の浴衣は涼しげな藍色に白の小紋柄。帯は赤く、白の髪飾りがアクセントになっている。台所で使い古したベージュのエプロンをつけ、髪を適当に束ねては洗剤やだしの匂いを漂わせている、そんな日常の母とは違う姿だ。

 気乗りはしなかったが、母の浴衣姿とふわりと鼻をかすめた化粧品の匂いに促され、ぎこちなく踊りの輪へ加わる。母の背中を追い、「右足、左足、下がる、進む」という声に合わせ、僕の体も次第にリズムを刻み始めた。

 「母さんは先に帰るよ」

 肩を叩かれて振り返ると、母の後ろに大きな月がかかっていた。一際明るいのは、この月のせいかもしれない。母の柔らかな表情を見ながら、「ああ、もう少し踊ってから帰る」と僕は答えた。

 しばらくして、母が抜けたスペースに、一人の若い女性が滑り込んできた。落ち着いた深い紺地の浴衣には、大輪の花があしらわれている。提灯の明かりを吸い込んで金色に光る帯が、彼女の佇まいを引き締めていた。まとめられた髪から下がる紫の髪飾りが夜風に揺れるたび、周囲の空気が清められるようだ。

 彼女の軽やかな足さばきと、指先まで意志の宿るような所作。僕は無意識のうちに、彼女の背中をなぞるように踊り続けていた。楽しげに、けれどどこか哀しみを湛えたその横顔は、踊りの輪にありながら、彼女の周りだけが別のカプセルのように静まり返っていた。

 夜の十時を過ぎ、輪は小さくなった。それでも熱気は冷めやらない。僕の体はいつしか意識を超え、太鼓のリズムそのものになっていた。彼女もまた、休むことなく踊り続けている。初めに見たときよりも、少しだけ浴衣の襟元がゆるんでいるように見えた。

 翌朝、青年団の手伝いで提灯を畳んだが、そこにはもう彼女の姿はなかった。小さな町のこと、いつかまたどこかで会えると思ったが、まだ一度も顔を合わせたことはない。九月になっても、僕は時折あの月夜の踊りを思い出している。



香天集7月12日 加地弘子、三好つや子、浅海紀代子ほか

香天集7月12日 岡田耕治 選

加地弘子
蓮の花淵のはじめに手を繋ぎ
梅雨の蝶バス待つ人のパイプ椅子
鴉の子四十年を生きる脚
万緑やおにぎり三個腹に入れ

三好つや子
右足が起きて来ないの梅雨茸
蝉声のいっせいに止む白紙かな
眼にも黙秘権ありサングラス
鳳仙花少し嫌いで少し好き

浅海紀代子
それぞれに言い分のある茂りかな
白薔薇もののあわれを拒みけり
子のことを離れて気づくカーネーション
金魚草亡き子にも来る誕生日

佐藤静香
籐寝椅子足の指先より異界
観音の知恵のろうそく花は蓮
鳥居くぐる京紫の絽の匂ひ
短夜や終りは迅き砂時計

佐藤諒子
草刈るや息を緑に固められ
誇らしく菜園照らし茄子の花
売られゆく四角西瓜の肩の張り
涼風は極楽よりの一筆に

俎石山
梅干に押しつぶされて目が醒める
冥界に遊び続ける夏帽子
鍵っ子が帰れるところ稲荷寿司
梅干の種を吸ったか烏の仔

楽沙千子
音もなく水に広がる半夏雨
絵画展出てほっとする若葉かな
立付の悪き網戸をなだめおり
願うことありてくぐりし茅の輪かな

中島孝子
命名に応え溢るる桜草
桜草零る花びら水に咲く
園児なき砂場を包む藤簾
香をも摘み両手にごろん蕗の薹

北橋世喜子
春雨に身じろぎもせぬ青虫よ
眠くなるまじないをかけ小判草
倒れたる木に再生の若葉萌ゆ
袖通しゆけり五月の一重にて

半田澄夫
永き夢弥生遺跡の蓮の花
田植歌弥生遺跡に聞こえくる
キャンバスのイエロー仄か五月空
尾灯へとずっと手を振る朧月

橋本喜美子
一夜にて新樹となれる並木かな
大鍋にたぎる筍朝の厨
彼方此方の風流れくる牡丹かな
夕日さす大樹の下の花いばら

上原晃子
藤房の色と香揺らす羽音かな
日を受けて艶やわらかき柿若葉
手入れなき庭の紫蘭の咲き揃う
墳丘のうぐいす鳴けり朝の空

石田敦子
黄砂降りミサイルの飛ぶ一日かな
藤の花マスクを掠め香り来る
つつじ燃ゆ白とピンクが混じり合ひ
鶯の鳴き声を聞くランチかな

川合道子
「上手だね」うぐいすに声かけており
新玉葱抜きたてもらうサラダかな
新緑や授かり物と山歩く
口いっぱい腹のふくらむ鯉のぼり

林おうはく
紫陽花の迷路に入る万華鏡
寂しさやシャッター通り墓じまい
初夏の風受けてベランダ満艦飾
こいのぼり吹く風ほどの元気かな

市太勝人
蜃気楼万博ブームまだ続く
新緑やドラマセットの鎧にも
明と暗2センチにあり春の雨
木仕事のゴールデンウィーク一瞬に


〈俳句物語〉岡田耕治
月明の母より長く踊るなり 曾根毅   句集『十翼』より

 盆踊りの喧騒の中、母が踊りの輪へと僕の手を引いた。母の浴衣は涼しげな藍色に白の小紋柄。帯は赤く、白の髪飾りがアクセントになっている。台所で使い古したベージュのエプロンをつけ、髪を適当に束ねては洗剤やだしの匂いを漂わせている、そんな日常の母とは違う、少しよそゆきの姿だ。
 気乗りはしなかったが、母の浴衣姿とふわりと鼻をかすめた化粧品の匂いに促され、ぎこちなく踊りの輪へ加わる。母の背中を追い、「右足、左足、下がる、進む」という声に合わせ、僕の体も次第にリズムを刻み始めた。
 「母さんは、ちょっと休憩」
 母と叔母が輪を離れ、櫓の下のパイプ椅子へと引き上げていく。二人が抜けたスペースに、ふと一人の若い女性が滑り込んできた。
 落ち着いた深い紺地の浴衣に、大輪の花があしらわれている。提灯の明かりを吸い込んで金色に光る帯が、彼女の佇まいを引き締めていた。まとめられた髪から揺れる紫の髪飾りが、夜風に揺れるたび、周囲の空気がさっと清められるようだった。彼女の軽やかな足さばきと、指先まで意志の宿るような所作。僕は無意識のうちに、彼女の背中をなぞるように踊り続けていた。
 「母さんは先に帰るよ」
 肩を叩かれて振り返ると、母の後ろに大きな月がかかっていた。一際明るいのは、この月のせいかもしれない。母の柔らかな表情を見ながら、「ああ、もう少し踊ってから帰る」と僕は答えた。
 再び前へ向き直ると、櫓から響く太鼓の音に合わせ、彼女がしなやかに指先を天へ突き上げた。白く細い腕が夜空を切り取る。楽しげに、けれどどこか哀しみを湛えたその横顔は、雑踏の中にありながら、彼女の周りだけが別のカプセルのように静まり返っていた。
 夜の十時を過ぎ、輪は小さくなった。それでも熱気は冷めやらない。僕の体はいつしか意識を超え、太鼓のリズムそのものになっていた。彼女もまた、休むことなく踊り続けている。初めに見たときよりも、少しだけ浴衣の襟元がゆるんでいるように見えた。
 翌朝、青年団の手伝いで提灯を畳んだが、そこにはもう彼女の姿はなかった。小さな町のこと、いつかまたどこかで会えるだろう。そう思いながら、九月になっても、僕は時折あの月夜の踊りを思い出している。
*舞い包む光の中の水馬 岡田耕治

2026年7月5日日曜日

バーナードリーチの皿よ葛桜 長谷川洋子

〈俳句物語〉 岡田耕治

バーナードリーチの皿よ葛桜  長谷川洋子

主)今日はわざわざ来てくれてありがとう。雨、大丈夫だった?

客)はい、電車に乗ってるときは降ってましたけど、駅からここまで傘は入りませんでした。

主)それはよかった。ポットのお湯で略式だけれど、お茶を点てるわね。まずは、お菓子をどうぞ。

客)わあ、これは何と言うお菓子ですか。透き通っていて、桜色…!

主)葛桜(くずざくら)というの。葛の根を砕いて絞ったデンプンから作られた、半透明の葛生地。その中にこし餡を包み、塩漬けの桜の葉を巻いた和菓子よ。

客)初めていただきます。それに、このお皿。ぽってりとした厚みがあって、なんだか土の温もりを感じます。

主)それはバーナード・リーチというイギリスの陶芸家のお皿なの。私、先月まで入院してたでしょ。退院してから、食器棚を整理していて、今日のために出しておいたの。

客)このお皿と和菓子の組み合わせ、歓迎されているみたいです。切れ目を入れるのがもったいないほど。わあ、上品な甘さですね。

主)では、お茶もどうぞ。

客)お点前(てまえ)頂戴いたします。

主)よかったら、このお皿、ペアで貰ってくれるかしら。

客)え、いいんですか。

主)このお皿は、よく使い込んだ方がより美しくなると思うの。私は、残り時間のカウントダウンに入っているけど、あなたはこれからでしょう。

客)ペアで! 今付き合ってる彼とこのお皿を使いながら、新しい日々を重ねなさい、そんなメッセージですね。では、心していただきます。