2026年3月29日日曜日

俳句物語 永き日の悦ちゃんと居る身の昔 森谷一成

俳句物語 岡田耕治 

永き日の悦ちゃんと居る身の昔  森谷一成

 ぼくが住む町に近づくと、車窓の先に海が見えてくる。それまではスマホを見ているのだが、海の見えるあたりに差し掛かると、顔を上げて水平線を見つめるのが日課になっている。日が長くなるこの季節は、ちょうど退勤の時刻に、海に沈む夕焼が見える。
 今日、ぼくが見た夕日は、海一面を紅く染め上げ、中学時代に悦ちゃんと二人で見た、あの日の夕日と同じグラデーションだと感じた。
 悦ちゃんとは、交換日記をしていた。放課後、放送室兼放送部の部室にぼくが日記を置き、翌日また取りに行く。彼女は幼くして母親を亡くし、どこかのんびりした父親と二人暮らし。最近、その父親に再婚話が持ち上がっていると聞いた。ある時、開いた日記の2ページいっぱいに、ただぼくの名前だけが、びっしりと書き連ねてあって、驚いた。
 文化発表会が終わった日、たまたま一緒に帰ることになり、そのまま海を見に行った。そのときも、今日と同じように、海も空も茜色に染まる夕暮れだった。二人並んでベンチに座り、ただ沈んでいく夕日を見ているだけで、お互いのことは何も話さなかった。
 それぞれ別の高校に進学し、高校生になってから悦ちゃんと二度会った。二度目も海を見に行ったけれど、次に会う約束はしなかった。あれはもう30年以上も前のことになるだろうか。
 ふと、自分が降りる駅の一つ手前で、一人の女性が電車を降り、夕日のホームを歩いていくのが見えた。その一瞬の横顔と目差しに、「悦ちゃんではないか」と直感した。すぐに電車が発車してしまい、確かめる術はなかったが、あれはきっと悦ちゃんにちがいない。なぜなら、ぼくのてのひらに、中学生の頃に握り合った、あの小さな手の温もりが蘇ってきたから。



香天集3月29日 森谷一成、玉記玉、夏礼子、柏原玄、中嶋飛鳥ほか

香天集3月29日 岡田耕治 選

森谷一成
白面をしらべ始める杉の花
口笛吹く出来損いの初音にも
木の叉に隠れていたり原発忌
永き日の悦ちゃんと居る身の昔

玉記 玉
困憊の寄り添うている花筏
眠る昼眠らぬ夜を藤垂るる
放しては抓んでみたる寄居虫かな
柳絮飛ぶ気分で君も沈黙す

夏 礼子
恋猫の永久を見ている闇のあり
雛の目の数多めまいのしてきたる
春の鵙明日の日差しを啄みぬ
一日を生まれ変わらん春の雲

柏原 玄
束の間の美徳をおぼえ紫木蓮
つくづくし一枚を脱ぎ立ち向かう
蛇穴を出てたくらみの舌を出す
再始動ならぬ来し方初桜

中嶋飛鳥
生殖の春呼びよせる海の青
山笑う少し無理して肩を組み
新しき仮面をえらび卒業す
木瓜の花退院メール二度来たり

加地弘子 
印鑑はここ書類はここと追儺の夜
福も鬼も変わらずありて豆を喰う
大根や血抜きされたる鰤の粗
綿虫のぶつかる事のなき軽さ

釜田きよ子
チューリップと同じ顔して一年生
さくらさくら無心に眠る赤ん坊
敵味方どちらも大事山笑う
誰からも好かれ飽きられチューリップ

砂山恵子
もうちよつとが口癖の子よ木の芽摘む
ババ抜きを抜けたる子から石鹸玉
春の星あかり消したる能舞台
春愁牛乳瓶から出たのかも

嶋田 静
髪切ってまぶしき街や風光る
寂しさのなお山茶花の白が好き
親切をさずかっている春日向
海賊の幟はためき島の春

前藤宏子
和菓子買う春いっぱいの色を選り
山里の郵便局の雛かな
珍しく息子が取れり桜餅
鞦韆をひと振り揺らし少年去る

宮崎義雄
春の宵老いの命を酌み交わす
春闘や雑魚寝の列の豆灯り
底砂利をくの字に探り乗込鮒
岸壁を掻く音つづく貽貝取り

森本知美
遮断機の音のリズムや畑を打つ
畑打や笹根と力くらべしつ
戦争のニュース日毎に木瓜咲きぬ
予定表埋まる早さよ弥生尽

安田康子
さんざめく玻璃戸の向こうミモザの黄
ほこほこと追い上ぐ蕾シクラメン
春夕焼あすは良き事きっとある
風光る和太鼓ひびくカフェテラス

木南明子
寒あやめ残れる日々を思いやる
白梅の両手を上に挙げており
花辛夷今日の暮らしを恙なく
白椿装う人が玄関に

河野宗子
春日向手に持つコップ落としたる
雪柳燃え立つ白を知らぬ家
木瓜の花大きなトゲを出しており
松の芯今をきっぱり生きのびる

田中仁美
春立つと遠くなりゆくニューヨーク
毛氈の春日をすすむ裾さばき
風光る着物ふたりの笑い声
チューリップ孫がこちらを向いてる

目 美規子
百円を拾う道端こぼれ梅
啓蟄や寝起きのめまいして来たる
五十年続くスナック春に閉ず
天に矢を放ちていたる白木蓮

金重こねみ
浮かびくる友の笑顔や朧の夜
媼ほど声弾みたる雛祭
啓蟄や鍬をひとまず置くことに
ドローンの爆撃つづく春の闇

松並美根子
ガラス戸の光まぶしむ春炬燵
店頭の色さまざまにチューリップ
春来る曾孫に会えし初参式
思い馳す山中渓の桜かな

北岡昌子
ホーホーと鶯のなく散歩中
春の霜地面にうつる犬の顔
姿見ず目白の声の聞こえたる
病院の庭の明るき桃の花

大里久代
春よ来い土の中より呼んでいる
太陽に照らされ光る春の芝
買物中お雛祭りの曲流れ
桃の花二人並んですましけり

〈俳句物語〉 耕治
永き日の悦ちゃんと居る身の昔  森谷一成
 ぼくが住む町に近づくと、車窓の先に海が見えてくる。それまではスマホを見ているのだが、海の見えるあたりに差し掛かると、顔を上げて水平線を見つめるのが日課になっている。日が長くなるこの季節は、ちょうど退勤の時刻に、海に沈む夕焼が見える。
 今日、ぼくが見た夕日は、海一面を紅く染め上げ、中学時代に悦ちゃんと二人で見た、あの日の夕日と同じグラデーションだと感じた。
 悦ちゃんとは、交換日記をしていた。放課後、放送室兼放送部の部室にぼくが日記を置き、翌日また取りに行く。彼女は幼くして母親を亡くし、どこかのんびりした父親と二人暮らし。最近、その父親に再婚話が持ち上がっていると聞いた。ある時、開いた日記の2ページいっぱいに、ただぼくの名前だけが、びっしりと書き連ねてあって、驚いた。
 文化発表会が終わった日、たまたま一緒に帰ることになり、そのまま海を見に行った。そのときも、今日と同じように、海も空も茜色に染まる夕暮れだった。二人並んでベンチに座り、ただ沈んでいく夕日を見ているだけで、お互いのことは何も話さなかった。
 それぞれ別の高校に進学し、高校生になってから悦ちゃんと二度会った。二度目も海を見に行ったけれど、次に会う約束はしなかった。あれはもう30年以上も前のことになるだろうか。
 ふと、自分が降りる駅の一つ手前で、一人の女性が電車を降り、夕日のホームを歩いていくのが見えた。その一瞬の横顔と目差しに、「悦ちゃんではないか」と直感した。すぐに電車が発車してしまい、確かめる術はなかったが、あれはきっと悦ちゃんにちがいない。なぜなら、ぼくのてのひらに、中学生の頃に握り合った、あの小さな手の温もりが蘇っているから。
*立ち止まるためすかんぽを咥えけり 岡田耕治

2026年3月22日日曜日

給食の伊予柑を分け下足箱 俎 石山

俳句物語(7)  岡田耕治

給食の伊予柑を分け下足箱   俎 石山
ポケットに八朔ひとつ帰りけり

 給食に伊予柑が出た。ボクは酸っぱいのが苦手で、蜜柑もほとんど食べない。伊予柑はみかんよりもはるかに酸っぱい。母は柑橘系が好きなのでよく買ってくるが、伊予柑は小さい頃に一口食べたきりだった。

 担任は、給食を残すことを許さないタイプなので、バレないようにそっとポケットにしまった。伊予柑の小ささがありがたかった。給食を食べながら、「ワタシ、伊予柑大好き」と言う女子がいた。母が柑橘類を好むことがボクには理解できないように、彼女が伊予柑を好きというのも、全く分からない。なぜあの中途半端な酸っぱさが良いのだろう。

 放課後、今日は部活動がないため、すぐに下校するよう放送があった。昨年から土曜日か日曜日のどちらかは必ず休み、平日も一日休むという学校の方針が出たので、水曜日は部活動のない日になった。

 下足場でその伊予柑好きの女子とばったり会った。ポケットにしまってあった伊予柑を取り出して、
「これ、食べる?」
「ありがとう。大好き」
「ボクも好きだけど、母が好きなんで持って帰るとこだった」
「じゃあ、これお返し」

彼女のリュックから出てきたのは、ボクのポケットに入りきらないほどの八朔だった。



風光る三年前の牛乳瓶  谷川すみれ

俳句物語(6)  岡田耕治

風光る三年前の牛乳瓶  谷川すみれ

 散歩の途中で水仙を見かけたので、切り取って牛乳瓶に挿した。この牛乳瓶は、2023年のコロナ禍の末期に、毎朝1本ずつ届けてくれていた牛乳屋さんが廃業することになったという知らせとともに入っていた瓶だ。店主が高齢の上、コロナ禍で大口の納入先からのご注文も減ってきたので、宅配のお客様には大変ご迷惑をおかけしますが、本日付で廃業させていただきますとあった。

 それからは、買い物に出かけたときにスーパーで紙パックの牛乳を買って、それを一週間で飲み切るという形で牛乳と親しんできた。だけど、紙パックより瓶の方が美味しかったように感じるし、直接飲むと口当たりも滑らかだ。今でも、銭湯に行くとコーヒー牛乳を瓶ごと飲んで、あの感触を懐かしんでいる。

 先日、その牛乳屋さんが、また宅配を始めるというチラシが入った。宅配の牛乳だけでなく、道路沿いの店舗を改装して、ソフトクリームも販売するという。電話で宅配を申し込むと、懐かしい店主の声で、「いや、娘が子育てが一段落したので、手伝ってくれることになりまして」と、嬉しそうな声が返って来た。

 翌日、牛乳を配達し、新しい牛乳箱を取り付けに来てくれたのは、四〇代らしい細身の女性だった。

「おはようございます。牛乳屋です」
「ご苦労さま。日曜日も配達してくれるんやね」
「はい毎日配達させていただきます。もし前の日の牛乳が残っていたら、お声をかけさせていただきますので、よろしくお願いします」



部室からカレーの匂い春の雪 三好つや子

俳句物語(5)  岡田耕治
 
部室からカレーの匂い春の雪 三好つや子

 部室棟は校舎から独立しており、運動場側には運動部、その裏手には文化部の部室が並んでいる。春の気配の中に雪が舞い始めたので、早めに練習を終えた陸上部につづいて、ソフトボール部のメンバーも道具を部室に引き上げてきた。

 そのとき、鼻腔をくすぐるカレーの匂いが漂ってきた。裏手、文化部の部室棟だ。どうやら演劇部の部室から匂っているらしい。ストッパーで半開きになったドアから覗くと、携帯用のガスコンロにかけた鍋で、キャプテンがカレーをゆっくり混ぜているところだった。

「どうしたの?」と聞くと、明日の卒業生を送る会で演じる劇がまだ中途半端なので、腹ごしらえをしてからまた練習を続けるつもりだと言う。
「外は雪が降ってきたよ」と声を掛けると、
「お世話になった3年生に、なんとか完成度の高い劇を見てほしいから」と彼女は答えた。
「それなら、私たちソフトボール部の2年生がカレーづくりを手伝うから、練習に戻って」と提案し、調理を担当することになった。

「だけど、カレーは作っても、ごはんはどうするの?」
「うん、ご飯を食べると眠くなるし、遅くなっても家で晩ご飯を用意してくれてるから。カレーは気合いを入れるためにルーだけ食べるわ」



干からびしごんずい海へ泳ぎ出す 宮崎義雄

俳句物語(4)  岡田耕治 

干からびしごんずい海へ泳ぎ出す 宮崎義雄

 友人からラインで、岬町の小島漁港でメバルを三匹釣ったという写真が送られてきた。静かな春の海に浮子を浮かべ、缶ビールを飲みながらゆっくり過ごす友人の姿が浮かび、居ても立ってもいられなくなった。翌日、小島へ出かけた。午前中の用事を済ませたため、釣り糸を垂らしたのは午後の三時頃だった。

 最初にかかったのは、十五センチほどのごんずいだった。以前、別の場所で、ごんずいの胸びれの棘に刺され、激痛に襲われたことがある。その時は、棘を抜いたものの痛みが治まらず、友人に水筒の湯で消毒してもらい、ようやくひと息ついた記憶がある。それ以来、魚を掴むためのフィッシュグリップを携帯しており、それを使ってごんずいを掴み、口から釣り針を外して捨てた。

 昨日とは潮の流れが違ったのか、午後五時を過ぎてもメバルはおろか、何も釣れなかった。帰りの道の駅でメバルはなくてもガシラぐらいは土産にできるだろうと思いながら、片付けを始めた。そのまま車に向かおうとしたが、ふと気になって波止に目をやると、ごんずいが下段で乾き切っていた。

 死んでも毒は残るというので、靴先で海に蹴り出すと、ごんずいは一旦沈んだあと、背中を左右に揺すってから泳ぎ出したではないか。あの揺すりは、自らを励ますのもだったのか、それとも私への挨拶だったのか。


甘味の厚焼き卵春きざす 辻井こうめ

俳句物語(3) 岡田耕治
 
甘味の厚焼き卵春きざす 辻井こうめ

 パートナーと暮らし始めて三年になる。家事は私が料理、パートナーが洗濯と掃除を分担している。最近の私の料理には、母ゆずりの厚焼き卵を「おいしい」と言わせるという一つの目標がある。毎日の弁当に欠かさず入れているが、パートナーは鶏の唐揚げや鮭の塩焼きは褒めても、厚焼き卵については一度も「おいしい」と言ったことがない。

 パートナーは関西、私は関東出身で、関西の方が何かと薄味の傾向がある。母が使っていた濃口醤油ではなく、薄口醤油に変え、砂糖も控えめにして、弁当の主役として真ん中に詰めているのに、なぜ満足してもらえないのだろう。

 先日、パートナーが行き付けの居酒屋で出し巻き玉子を注文した。ふわとろで美味しかったが、私にはどこか物足りない。やはり、玉子焼きは母の味が一番だと内心で思いながら、パートナーがトイレに立った隙に、店長に秘訣を尋ねてみた。「うちは醤油じゃなく、白だしを使ってます。あと、塩を一つまみ」とのこと。もちろん、砂糖は使わないそうだが、私にとって玉子焼きにはやはり砂糖が欠かせない。

 卵三つを割り、白身を切るように混ぜ、砂糖を小さじ二杯、母直伝の牛乳を少し加える。そして、醤油ではなく白だしを使ってみる。これまで、大さじ二杯だった砂糖に釣り合うようにと塩も少々入れていたが、今回は一つまみだけにする。焼き色が付かないよう、そして型崩れしないように丁寧に焼き上げた。

 今日の弁当は、それぞれの職場用ではなく、二人で市立美術館の作品展を見に行くために作ったものだ。美術館に入る前、芝生の広場でとっておきの弁当を開いたとき、くすっと笑う声が聞こえたような気がした。母の声だった。