2026年4月19日日曜日

燃え尽きし星もあるべし春の空 茨木和生

【俳句物語】岡田耕治

燃え尽きし星もあるべし春の空 茨木和生  句集『さやか』より

七十五歳のおじいちゃんは、元高校の物理の教員だった。六年前におばあちゃんを亡くしてから一人暮らしをしている。さやかは小学五年生で、春休みや夏休みなどに、兄と一緒におじいちゃんの家で二、三泊して過ごすのが何よりの楽しみだ。

おじいちゃんの書斎は、さやかのお気に入りの場所だ。端の玉をぶつけると反対側の玉がカチーンと飛び出す振り子。光を当てるだけでガラス瓶の中の風車がクルクルと回り出す不思議な道具。そんな「なぜ?」を掻き立てるものがあふれている。

今晩、おじいちゃんは、窓際にあるどっしりとした望遠鏡にさやかを招いた。
「これは遠くを見る道具であると同時に、『過去を見るタイムマシン』でもあるんだよ」。

おじいちゃんは、春の夜空の「北斗七星」から「しし座」にかけてのエリアが「宇宙ののぞき窓」と呼ばれていることを教えてくれた。

「今日この窓からは、いま自分たちがいる銀河ではなく、ずっと遠くの『別の銀河』が見えるんだ。
「今日はなぜ、遠くの星が見えるの?」。

「天の川の方向、つまり夏や冬の夜空を見ると、銀河の星やガスが多すぎて、遠くが見通せない。でも、春の夜に北斗七星やしし座がある方向は、天の川銀河の真上にあたる『薄い部分』なんだ。だから、邪魔されずに、はるか遠い別の銀河がよく見えるんだよ」。

さやかは、おじいちゃんがセットしてくれた望遠鏡を覗き込んだ。
「おじいちゃん、写真で見るような渦巻きなんて見えないよ。なんだか、小さくて淡い、光のシミみたい」。

「そのぼんやりした光のシミの中に、太陽のような星が何千億個も詰まっているんだ。その光は、数千万年という長い旅をして、今、さやかの目に届いたんだよ。さやか見ている光の中には、実はその星自体がすでに消滅してしまっている光もあるんだ」。

さやかは不思議そうな顔で尋ねた。「星は消えてしまうとどうなるの?」

「星が一生を終えて燃え尽きると、そのかけらが宇宙に散らばる。その星のくずが集まって、新しい太陽ができ、地球ができ、そして長い時間をかけて私たちの体が作られるんだ」。

「じゃあ、燃え尽きても死ぬことはないのね」。



香天集4月19日 三好広一郎、柴田亨、湯屋ゆうや、谷川すみれ他

香天集4月18日 岡田耕治 選

三好広一郎
春めくや錆びたペンチの開脚す
砂ゴムや汚染拡がる春の湾
トアロード出合い頭に昼の桃
蛇穴を出づ眼力を回復す

柴田亨
藤の根の力強さよ祖母の息
落花ひとつ無常の闇に咲いており
穏やかに白へと還る紫木蓮
精霊の寂しき集い花筏

湯屋ゆうや
夕桜切干大根炊き始む
綿飴を顔前に立て花明り
フルートの人と憶ゆる花楓
子が描けば美しくなるクロッカス

谷川すみれ
光悦寺四百年を芽吹きけり
一病を守る湯気甘し桜餅
春陰をおよぐ首相の首飾り
春分や行くよりほかになき鞄

木村博昭
春泥を浴びてゴールを守り抜き
あたたかし駅のピアノに鳴る拍手
春分の地球儀あくびしていたる
率直に幸せというチューリップ

佐藤諒子
揚雲雀黒土動く気配のす
春日影バイオリニストのうす目にて
子の瞳何かささやく春の風
菜の花やふるさとの山見失う

上田真美
シャボン玉身体くの字にして吹く子
花の宴酒の肴にされている
暮れなずむ恋になりそうならなそう
花曇り窓の外はと尋ねられ

平木桂
花吹雪若さにしがみつくなんて
吾子の掌に花びらとして舞ひ降りぬ
見飽きたる仏頂顔と浅蜊汁
百舌鳥古墳バルーンのゆく養花天

橋本喜美子
寒鯉のはじめに胃腑の抜かれけり
降る雪に青空来よと祈りおり
年の豆大国さまにあげ申す
何にでも入れる打豆鬼やらひ

宮下揺子
父母に抗う少年の四月
夏衣ライブカメラにⅤサイン
うっかりが続く日の中こぶし咲く
自己主張強い二人と春の旅

半田澄夫
迷い込む哲学の森寒の夜
一人となり冬の峠をバスで越す
手間暇を残さず食べんおでんだし
早く咲く梅は主を選ばない

北橋世喜子
一番と空を指差す花アロエ
煮凝りの醤油の甘さ義母の味
大の字に吹かれ干されしねんねこよ
味噌仕込む四時間を豆踊りけり

中島孝子
ガラス器を飾り遅れし雪中花
寒さなし生地をこねゆくパン作り
声響く氷柱の長さ競う子ら
冴え返るペダルの重し投票日

楽沙千子
春きざす傘寿祝いの花束に
海苔香る紀州茶粥の朝餉かな
趣味の友招いていたりわらび餅
特急を見上げていたり花筏

上原晃子
たむろするふくら雀の精米所
俯きの蝋梅透かす日差かな
雪あかりママレード煮る艶と香よ
白梅の徒長枝競い天を突く

川合道子
筆に墨白を生かして冬を描く
新聞の冷たさを取り朝始まる
冬空にひっそりとある朝の月
真っ白な地面を進む息白し

石田敦子
小豆粥インスタントで事の足る
ことごとく切先の向く氷柱かな
存分に雪舞う街を見に行かむ
豆まきのスターの揃ふ福は内

林おうはく
雪しまきライトに映る能登の道
風花や何処の旅の寄り道か
冬日受く鰡待ち櫓光る波
十二月仏も神もCMに

市太勝人
天覧の初場所にして総くずれ
風花やあの日のことを忘れずに
大棋士の旅立ってゆく寒の内
初春や紙の朝刊保存する

東 淑子
高高と咳の体を寄せており
寒風のキンキンと窓鳴らしけり
紅白の人を寄せいる梅の花
水仙やすんなりとした黄色をし


〈俳句物語〉岡田耕治
燃え尽きし星もあるべし春の空 茨木和生  句集『さやか』より

 七十五歳のおじいちゃんは、元高校の物理の教員だった。六年前におばあちゃんを亡くしてから一人暮らしをしている。さやかは小学五年生で、春休みや夏休みなどに、兄と一緒におじいちゃんの家で二、三泊して過ごすのが何よりの楽しみだ。
 おじいちゃんの書斎は、さやかのお気に入りの場所だ。端の玉をぶつけると反対側の玉がカチーンと飛び出す振り子。光を当てるだけでガラス瓶の中の風車がクルクルと回り出す不思議な道具。そんな「なぜ?」を掻き立てるものがあふれている。
 今晩、おじいちゃんは、窓際にあるどっしりとした望遠鏡にさやかを招いた。
「これは遠くを見る道具であると同時に、『過去を見るタイムマシン』でもあるんだよ」。
おじいちゃんは、春の夜空の「北斗七星」から「しし座」にかけてのエリアが「宇宙ののぞき窓」と呼ばれていることを教えてくれた。
「今日この窓からは、いま自分たちがいる銀河ではなく、ずっと遠くの『別の銀河』が見えるんだ。
「今日はなぜ、遠くの星が見えるの?」。
「天の川の方向、つまり夏や冬の夜空を見ると、銀河の星やガスが多すぎて、遠くが見通せない。でも、春の夜に北斗七星やしし座がある方向は、天の川銀河の真上にあたる『薄い部分』なんだ。だから、邪魔されずに、はるか遠い別の銀河がよく見えるんだよ」。
 さやかは、おじいちゃんがセットしてくれた望遠鏡を覗き込んだ。
「おじいちゃん、写真で見るような渦巻きなんて見えないよ。なんだか、小さくて淡い、光のシミみたい」。
「そのぼんやりした光のシミの中に、太陽のような星が何千億個も詰まっているんだ。その光は、数千万年という長い旅をして、今、さやかの目に届いたんだよ。さやか見ている光の中には、実はその星自体がすでに消滅してしまっている光もあるんだ」。
 さやかは不思議そうな顔で尋ねた。「星は消えてしまうとどうなるの?」
「星が一生を終えて燃え尽きると、そのかけらが宇宙に散らばる。その星のくずが集まって、新しい太陽ができ、地球ができ、そして長い時間をかけて私たちの体が作られるんだ」。
「じゃあ、燃え尽きても死ぬことはないのね」。


*夕空をやわらかくして燕来る 岡田耕治

2026年4月12日日曜日

春夕べひっかき傷を猫にもらう 浅海紀代子

〈俳句物語〉岡田耕治

春夕べひっかき傷を猫にもらう 浅海紀代子

 わらわは猫、名前はココ。あるじの肉付きのいい手のひらは、わらわの腰から背中へ、さらに耳の後ろへとゆっくりとした愛撫をくれる。そうこうしているうちに、いつしかあるじのお腹を枕に眠りについてしまうのが常である。
 だが、今日は違った。窓の外を向かいのレオがのそりと歩いている。わらわはハッと目覚め、起き上がった拍子に、あるじの手首をひっかいてしまったのである。「痛っ」と声を上げ、あるじが洗面所に立った隙に、わらわはレオを追って外へ飛び出した。レオはわらわの姿が見えているはずなのに、そのまま家の中に入ってしまった。
 レオは去年の夏に去勢手術を受け、二つのタマタマを失ってしまった。それ以来、わらわを見ても近寄ってくることが少なくなった。以前の引き締まったスタイルも崩れ、急に太ってしまったせいか、家にいる時間が増えている。わらわとは、もはや恋のリズムが合わなくなったのだろうか。
 夕刻、あるじのパートナーが帰宅し、二人の会話が始まった。
「今日はココにひっかかれてしまったの」
「え、珍しいね。大丈夫?」
「うん。猫の恋なのかしら、このところピリピリしてる感じなの」
「そろそろ避妊手術した方がいいかも」
「手術となると、三万円以上かかるでしょ」
「いや、補助金が出るから半額くらいでできるんじゃない。でも、先着順だから早く申し込まないと」
この会話を眠ったふりをして聞きながら、わらわはふと思った。
これで、レオとものんびり仲良くできるかも。


香天集4月12日 浅海紀代子、三好つや子、俎石山、佐藤静香ほか

香天集4月12日 岡田耕治 選

浅海紀代子
美容室春愁の顔置いてくる
春夕べひっかき傷を猫にもらう
テーブルに二つ椅子足す夕桜
一片は花菜の風に放ちけり

三好つや子
指編みの指からうさぎ光悦忌
卒業日おどけた影が泣いている
春分のバス乗りついで岬まで
ノートの隅のパラパラ漫画燕来る

俎 石山
トラックを横転させる一年生
春眠の死地を彷徨う至福かな
デコポンの突起部分を含みけり
ぶらんこの窪み剃刀錆びている

佐藤静香
鞄より首出す仔猫イルカショー
手話の子の弾ける笑顔つくしんぼ
陽炎を抜けて他国の草の中
泡ひとつ吐いてはまぐり悦に入る

牧内登志雄
ぼっとんと糞の転がり牧開き
初蝶や夢見を覚ます竹の音
霾やざんぶと沈む河馬の波
釜石に鉄の火消ゆる春燈

谷村敏子
駅ホーム糞(まり)に注意と燕の巣
足止める亀の鳴くのを聞きたくて
竹馬の段上がりでき卒園す
熊野路は峡深き里山笑う

佐藤浩章
松江城巡る堀川花見舟
椿満つトンネルをゆくシルバーカー
瀬戸内へかわらけ飛ばし春惜む
玻璃戸浮くナスカ地上絵黄沙降る

山内宏子
花菜摘む母を映せる姉の背
春風に楽譜を飛ばす四分休符
早足のワニとなりたる春の雲
淡路島背中にゆるり春の旅

以上、香天集への投句、ありがとうございます。

〈俳句物語〉岡田耕治
春夕べひっかき傷を猫にもらう 浅海紀代子
 わらわは猫、名前はココ。あるじの肉付きのいい手のひらは、わらわの腰から背中へ、さらに耳の後ろへとゆっくりとした愛撫をくれる。そうこうしているうちに、いつしかあるじのお腹を枕に眠りについてしまうのが常である。
 だが、今日は違った。窓の外を向かいのレオがのそりと歩いている。わらわはハッと目覚め、起き上がった拍子に、あるじの手首をひっかいてしまったのである。「痛っ」と声を上げ、あるじが洗面所に立った隙に、わらわはレオを追って外へ飛び出した。レオはわらわの姿が見えているはずなのに、そのまま家の中に入ってしまった。
 レオは去年の夏に去勢手術を受け、二つのタマタマを失ってしまった。それ以来、わらわを見ても近寄ってくることが少なくなった。以前の引き締まったスタイルも崩れ、急に太ってしまったせいか、家にいる時間が増えている。わらわとは、もはや恋のリズムが合わなくなったのだろうか。
 夕刻、あるじのパートナーが帰宅し、二人の会話が始まった。
「今日はココにひっかかれてしまったの」
「え、珍しいね。大丈夫?」
「うん。猫の恋なのかしら、このところピリピリしてる感じなの」
「そろそろ避妊手術した方がいいかも」
「手術となると、三万円以上かかるでしょ」
「いや、補助金が出るから半額くらいでできるんじゃない。でも、先着順だから早く申し込まないと」
この会話を眠ったふりをして聞きながら、わらわはふと思った。
これで、レオとものんびり仲良くできるかも。


*初蝶に一瞬遅れ承知せり 岡田耕治

2026年4月5日日曜日

沈黙をふくらんでくる牡丹の芽 渡邉美保

沈黙をふくらんでくる牡丹の芽 渡邉美保
岡田耕治

 さよちゃんは、学校では全くしゃべらない。表情も、笑顔とか怒った顔とか、そういうのも見たことがない。ただ静かにそこにいるだけだ。中学校2年生のとき転校してきたけれど、別々のクラスだった。3年生で同じクラスになって、初めてその沈黙に気づいた。なぜ何も言わないのだろうと思うこともあるが、私もどちらかというと人間関係が苦手な方なので、さよちゃんのようになりたいと思うこともある。
 推しのアーティストのことで盛り上がったり、インスタでスイーツを自慢したり、休みにグッズを買いに出かけたりすることは苦手だ。さよちゃんの気持ちはわからないけれど、なんとなく、さよちゃんのことが気になっていた。
 2学期の初め、さよちゃんに、私の携帯番号をメモして「よかったらメッセージちょうだい」と渡した。するとその日の夜、さよちゃんから「教えてくれてありがとう」とメッセージが入った。そこからさよちゃんとは苦手なLINEではなく、iPhoneのメッセージでやりとりするようになった。
 学校にはケータイを持っていけず、昼間はやりとりができないけれど、学校から帰ってからさよちゃんとやりとりをするようになった。しばらくして、家では普通にしゃべっているけれど、学校に行くとどうしても話せなくなると書いてくれた。志望高校が一緒だったので、何とか合格するように、お互いに情報交換もした。
 公立高校の合格発表の日、朝10時からネット上で発表されるので、10時きっかりにアクセスしたけれど、なかなかつながらない。10時20分を廻ったところで、やっとつながって、合格という画面が表示された。母にメッセージを送ってから、さよちゃんはどうだろうとメッセージを送ると、さよちゃんも合格していた。
 入学式の日は、前日の雨に打って変わってきれいに晴れ、校庭の桜も満開だった。私とさよちゃんは、また同じクラスになった。なんだか、ほっとしたような気持ちになる。母にさよちゃんとツーショットの撮影をしてもらった。家に帰って写真を見直すと、さよちゃんがほんの少し笑っているように見えた。
 もしかしてと思って、ボイスメッセージで語りかけた。
「さよちゃん、今日の入学式は良かったね。これからはいつも携帯を持って、連絡を取り合うことができるね」
すると、すぐボイスメッセージが返ってきた。
「そうだね。ありがとう」
初めて聞いたさよちゃんの声は、ふくらみのある声だった。



香天集4月5日 渡邉美保、辻井こうめ、浅海紀代子、加地弘子ほか

香天集4月5日 岡田耕治 選

渡邉美保
沈黙をふくらんでくる牡丹の芽
干潮の舟が傾き木瓜の花
啓蟄の古本屋にて兄と会ふ
陵は大き鍵穴つばめ来る

辻井こうめ
鳥曇上演までの外つ語かな
ものだねの四天王寺の帰り道
握り飯春分の日の里山へ
実直な人やも知れむ木瓜の花

浅海紀代子
木の芽風戸口を開けて待つ便り
チューリップ泣いている間に天を突く
ふんばりの効かぬ日のあり雪柳
春の虹追憶はみな彩もたず

加地弘子
初暦開け閉めの時少し跳ね
枯菊の品よくありぬポリ袋
戦なき空を真っ直ぐ初燕
ピーピーと雀の枕鳴き出しぬ

川村定子
七段の男雛と女雛だけかざる
春てふに腰のカイロを張り足しぬ
美冷作山寺の庭くゆりなし
救急車寒の夜道を走り抜く

垣内孝雄
芽吹く木木犬を連れたる老夫婦
緑立つ近道の畔選びおり
花の昼付け紐とほす身八つ口
父母と祖父の墓石や里桜

岡田ヨシ子
雛の寿司シルバーカーを連ねおり
故郷の通学路から桜消ゆ
花見へと誘う手紙に夢と書く
夕桜天国からの迎えなく

秋吉正子
紅梅や細かい所目をつぶり
なつかしき人に会ったよ春の雪
注文はタッチパネルで浅蜊汁
探梅や団地の中のシルバーカー

吉丸房江
お日様に献ずるごとき花の彩
初誕生お口もぐもぐ桜餅
どこ行くも赤き絨毯落椿
温きまま釘煮届ける友の居て

西前照子
バス旅行米寿の祝い歌舞伎座へ
神棚にのせ理智院の年の豆
春が来る人生ゲームルーレット
つばめ待つ仕事場の窓明け放ち

大西孝子
青空に告げることあり初燕
我が家へと帰ってきたとつばくらめ
庭の中去年より増えふきのとう

川端大誠
ゆったりと背中を癒やす春の風

川端勇健
車窓から川端を減る桜たち

川端伸路
入学の兄楽になる通学路

【俳句物語】 岡田耕治
沈黙をふくらんでくる牡丹の芽 渡邉美保
 さよちゃんは、学校では全くしゃべらない。表情も、笑顔とか怒った顔とか、そういうのも見たことがない。ただ静かにそこにいるだけだ。中学校2年生のとき転校してきたけれど、別々のクラスだった。3年生で同じクラスになって、初めてその沈黙に気づいた。なぜ何も言わないのだろうと思うこともあるが、私もどちらかというと人間関係が苦手な方なので、さよちゃんのようになりたいと思うこともある。
 推しのアーティストのことで盛り上がったり、インスタでスイーツを自慢したり、休みにグッズを買いに出かけたりすることは苦手だ。さよちゃんの気持ちはわからないけれど、なんとなく、さよちゃんのことが気になっていた。
 2学期の初め、さよちゃんに、私の携帯番号をメモして「よかったらメッセージちょうだい」と渡した。するとその日の夜、さよちゃんから「教えてくれてありがとう」とメッセージが入った。そこからさよちゃんとは苦手なLINEではなく、iPhoneのメッセージでやりとりするようになった。
 学校にはケータイを持っていけず、昼間はやりとりができないけれど、学校から帰ってからさよちゃんとやりとりをするようになった。しばらくして、家では普通にしゃべっているけれど、学校に行くとどうしても話せなくなると書いてくれた。志望高校が一緒だったので、何とか合格するように、お互いに情報交換もした。
 公立高校の合格発表の日、朝10時からネット上で発表されるので、10時きっかりにアクセスしたけれど、なかなかつながらない。10時20分を廻ったところで、やっとつながって、合格という画面が表示された。母にメッセージを送ってから、さよちゃんはどうだろうとメッセージを送ると、さよちゃんも合格していた。
 入学式の日は、前日の雨に打って変わってきれいに晴れ、校庭の桜も満開だった。私とさよちゃんは、また同じクラスになった。なんだか、ほっとしたような気持ちになる。母にさよちゃんとツーショットの撮影をしてもらった。家に帰って写真を見直すと、さよちゃんがほんの少し笑っているように見えた。
 もしかしてと思って、ボイスメッセージで語りかけた。
「さよちゃん、今日の入学式は良かったね。これからはいつも携帯を持って、連絡を取り合うことができるね」
すると、すぐボイスメッセージが返ってきた。
「そうだね。ありがとう」
初めて聞いたさよちゃんの声は、ふくらみのある声だった。
*花筏迎え入れたる水泡かな 岡田耕治

2026年3月29日日曜日

俳句物語 永き日の悦ちゃんと居る身の昔 森谷一成

俳句物語 岡田耕治 

永き日の悦ちゃんと居る身の昔  森谷一成

 ぼくが住む町に近づくと、車窓の先に海が見えてくる。それまではスマホを見ているのだが、海の見えるあたりに差し掛かると、顔を上げて水平線を見つめるのが日課になっている。日が長くなるこの季節は、ちょうど退勤の時刻に、海に沈む夕焼が見える。
 今日、ぼくが見た夕日は、海一面を紅く染め上げ、中学時代に悦ちゃんと二人で見た、あの日の夕日と同じグラデーションだと感じた。
 悦ちゃんとは、交換日記をしていた。放課後、放送室兼放送部の部室にぼくが日記を置き、翌日また取りに行く。彼女は幼くして母親を亡くし、どこかのんびりした父親と二人暮らし。最近、その父親に再婚話が持ち上がっていると聞いた。ある時、開いた日記の2ページいっぱいに、ただぼくの名前だけが、びっしりと書き連ねてあって、驚いた。
 文化発表会が終わった日、たまたま一緒に帰ることになり、そのまま海を見に行った。そのときも、今日と同じように、海も空も茜色に染まる夕暮れだった。二人並んでベンチに座り、ただ沈んでいく夕日を見ているだけで、お互いのことは何も話さなかった。
 それぞれ別の高校に進学し、高校生になってから悦ちゃんと二度会った。二度目も海を見に行ったけれど、次に会う約束はしなかった。あれはもう30年以上も前のことになるだろうか。
 ふと、自分が降りる駅の一つ手前で、一人の女性が電車を降り、夕日のホームを歩いていくのが見えた。その一瞬の横顔と目差しに、「悦ちゃんではないか」と直感した。すぐに電車が発車してしまい、確かめる術はなかったが、あれはきっと悦ちゃんにちがいない。なぜなら、ぼくのてのひらに、中学生の頃に握り合った、あの小さな手の温もりが蘇ってきたから。