〈俳句物語〉 岡田耕治
桐一葉回数券というが在り 森谷一成
長年タクシードライバーとして走り続けてきた。無事に子どもたちを育て上げ、現在は静かな一人暮らしだ。会社を65歳で定年退職した後も嘱託としてハンドルを握ってきたが、70歳を迎えたのを機に、夜勤のある隔日勤務から心身に優しい日勤へと切り替えてもらった。
かつての隔日勤務は、朝7時から深夜まで17時間を走り抜くハードなものだった。昼夜の賑わいと多様な人生が交差する大阪の街。色々な思いを抱えたお客さんを目的地まで安全にお送りしながら、夜の街を懸命に走り抜けてきた日々が今となっては懐かしい。
無事に務め上げて迎えた今は、週3日の穏やかな日勤だ。夕方には仕事が終わり、夜はゆったりとした自分の時間が広がる。65歳を過ぎてから始めた星空の観察が、今の暮らしに豊かな彩りを添えてくれている。借りているアパートの屋上に小さな望遠鏡を置き、夜空を見上げるのが日々の密かな楽しみだ。
市内の夜空も味わい深いものだが、月に2度は足を延ばして和歌山県の「みさと天文台」へ出かける。普段仕事でハンドルを握っている分、休日は電車とバスにゆられる旅そのものを楽しむことにしている。
JR阪和線ときのくに線を乗り継ぎ、海南駅からオレンジバスへ。客席に深く腰掛け、揺られながら流れる景色を眺めていると、日々の疲れや緊張がほどけていくのを感じる。人に乗せてもらう心地よさは、心をリセットしてくれる特別な時間だ。
このバスに乗る際愛用しているのが、11枚つづりの回数券である。降車時に一枚ずつ切り離して運賃箱へ入れるひと手間が心地よい。一枚一枚の券に、これまで歩んできた人生の時間が重なり、それを減らしていく感覚は、愛おしいとさえ思えるのである。
バスを降り、散り始めた落葉を踏みしめながら、澄んだ空気を胸に吸い込んで天文台へと歩く。静かな山道の先には、満天の星が待っている。
大型望遠鏡を覗き込むと、漆黒の宇宙にぽっかりと浮かぶ土星が見えた。まるで精巧に作られた工芸品のような、息をのむ美しさだ。環の細やかなグラデーションや静寂な佇まいに魅せられていると、時を忘れて星たちの囁きに耳を傾けてしまう。
今日はこの後、川のせせらぎに耳を傾けながら、温泉に入り肉眼でも美しい星空と向き合うことになる。帰り道、天文台への旅に思いを馳せるながらバスのひとときを過ごし、また一枚回数券をちぎることになるだろう。
桐一葉回数券というが在り 森谷一成