香天
「香天」は、岡田耕治が編集する俳句誌です。
本誌は季刊ですが、香天集、代表作品、俳句鑑賞などを毎週アップします。
2026年8月2日日曜日
香天集8月2日 渡邉美保、玉記玉、中嶋飛鳥、辻井こうめ他
2026年7月26日日曜日
耳朶を嬉しがらせる夏帽子 柏原 玄
〈俳句物語〉 岡田耕治
耳朶を嬉しがらせる夏帽子 柏原 玄
妻を亡くして八年が過ぎた。何処へ行くにもいつも一緒だったから、別れた直後は「なぜ自分だけが残されたのか」という深い脱力感に苛まれたものだ。一周忌を過ぎ、「いつまでも沈んでいては妻が心配する」と自分に言い聞かせ、これからの人生を模索してきた。とはいえ、ふとした瞬間に、共有相手のいない孤独が胸を突くことは今も変わらない。
二人で出掛けた先の思い出が蘇ったり、耳許で囁く妻の声が聞こえたりするたび、今も静かな切なさが胸をかすめる。けれど、七回忌を過ぎた頃からだろうか、妻は「失われた人」から、私の中でいつまでも生き続ける「かけがえのない存在」へと、静かに姿を変えたように思う。
今日の猛暑の中、友人からカラオケに誘われた。若い頃は妻の装いに合わせてシャツやジャケットを選び直し、お洒落を楽しんだものだが、今ではお気に入りを丁寧に着回すようになった。髪が薄くなり、日除けのために被り始めた帽子も、今や隠すためではなく、自分を整えるための相棒だ。この帽子を被る時、かつての喪失感とは違う、新しい誇りのようなものが宿るのも、七回忌を過ぎた頃からだ。
今日選んだのは、つばが控えめなストローハット。被った瞬間、庇(ひさし)が作る日陰が耳元までスッと広がる。帽子の編み目から抜ける微かな風が、ふと私の耳朶(みみたぶ)をかすめていく。
「お父さん、今日の帽子、似合ってるわよ」
まるで妻が隣で微笑んでいるかのようなその声を聞きながら、私は少し背筋を伸ばし、駅へと続く道を歩き出した。
香天集7月26日 柏原玄、夏礼子、平木桂、春田真理子ほか
2026年7月19日日曜日
塩舐める牛と目が合う炎天下 三好広一郎
〈俳句物語〉 岡田耕治
塩舐める牛と目が合う炎天下 三好広一郎
毎年夏、大阪から高速バスに揺られ、淡路島の祖父の家へと向かう。バスを降り、島特有の風に混じる微かな牛の匂いを嗅ぐと、ぼくの夏が始まる。祖父が育てているのは、ブランド和牛の素牛となる但馬牛だ。
大学受験を控えたこの夏、午前中は牧場を手伝い、午後からは涼しい部屋で机に向かう。それが親と交わした約束だった。朝七時、祖父は牛たちの健やかな成長を願い、黙々と糞尿をかき出し、新しい藁を敷き詰める。私もそれにならい、水飲み場を磨き上げ、祖父が配合したエサを運ぶ。その傍らには"鉱塩"と呼ばれる大きな塩の塊を添える。牛たちは自身の体調や暑さに合わせ、必要な分だけを自らの意思で舐めとるのだという。
"足りないやつが、足りない時に、好きなだけ舐める"。祖父の言葉通り、エサを食べ終えた牛たちがザラザラとした大きな舌で鉱塩を舐めている。その時、ふと一頭の牛と目が合った。哲学的で、潤んでいて、それでいてはげしいまでの生命力を宿した瞳。その眼差しは、猛暑の中で祖父と働くぼくに、"お前がいてくれるから、じいさんの寿命も少し延びるよ"と語りかけているように感じられた。
外は午前中だというのに気温はぐんぐんと上昇し、三十度を軽々と超えていく。温暖化による猛暑と高騰するエサ代。祖父と祖母は、どこへ出かけることもなく、ただここで牛たちと向き合い続けている。あの一途な瞳で見つめ返されたのは、そんな二人の苦労と営みを、牛たちは一番近くで見守ってきたからにちがいない。
香天集7月19日 三好広一郎、谷川すみれ、柴田亨、湯屋ゆうや他
2026年7月12日日曜日
月明の母より長く踊るなり 曾根 毅
〈俳句物語〉岡田耕治
月明の母より長く踊るなり 曾根毅 句集『十翼』より
盆踊りの喧騒の中、母が踊りの輪へと僕の手を引いた。母の浴衣は涼しげな藍色に白の小紋柄。帯は赤く、白の髪飾りがアクセントになっている。台所で使い古したベージュのエプロンをつけ、髪を適当に束ねては洗剤やだしの匂いを漂わせている、そんな日常の母とは違う姿だ。
気乗りはしなかったが、母の浴衣姿とふわりと鼻をかすめた化粧品の匂いに促され、ぎこちなく踊りの輪へ加わる。母の背中を追い、「右足、左足、下がる、進む」という声に合わせ、僕の体も次第にリズムを刻み始めた。
「母さんは先に帰るよ」
肩を叩かれて振り返ると、母の後ろに大きな月がかかっていた。一際明るいのは、この月のせいかもしれない。母の柔らかな表情を見ながら、「ああ、もう少し踊ってから帰る」と僕は答えた。
しばらくして、母が抜けたスペースに、一人の若い女性が滑り込んできた。落ち着いた深い紺地の浴衣には、大輪の花があしらわれている。提灯の明かりを吸い込んで金色に光る帯が、彼女の佇まいを引き締めていた。まとめられた髪から下がる紫の髪飾りが夜風に揺れるたび、周囲の空気が清められるようだ。
彼女の軽やかな足さばきと、指先まで意志の宿るような所作。僕は無意識のうちに、彼女の背中をなぞるように踊り続けていた。楽しげに、けれどどこか哀しみを湛えたその横顔は、踊りの輪にありながら、彼女の周りだけが別のカプセルのように静まり返っていた。
夜の十時を過ぎ、輪は小さくなった。それでも熱気は冷めやらない。僕の体はいつしか意識を超え、太鼓のリズムそのものになっていた。彼女もまた、休むことなく踊り続けている。初めに見たときよりも、少しだけ浴衣の襟元がゆるんでいるように見えた。
翌朝、青年団の手伝いで提灯を畳んだが、そこにはもう彼女の姿はなかった。小さな町のこと、いつかまたどこかで会えると思ったが、まだ一度も顔を合わせたことはない。九月になっても、僕は時折あの月夜の踊りを思い出している。