2026年5月24日日曜日

風薫る昭和ガラスの我が家かな 嶋田 静

〈俳句物語〉 岡田耕治

風薫る昭和ガラスの我が家かな 嶋田 静

 じいちゃんが抗癌剤治療を止めて、自宅に帰ると言い出したのは、三月末のことだった。ケアマネージャーと相談の上、訪問診療に切り換えることになった。父と母、それに僕と弟は、一年間そのままにしていた実家を片付け、なんとかじいちゃんを受け入れるスペースを確保した。

 実家は、昭和三十年代の後半に建てられた木造の平屋だ。レンタルした電動ベッドを設置するため和室を片付け、補助金を使ってトイレまでの動線に手摺りを取り付けた。四月になってもまだ肌寒い日があり、外窓だけでなく、廊下と座敷を仕切る木製の引き戸にも隙間があったため、風が吹くたびにガラスがカタカタと鳴る音がした。

 病院の空調が効いた分厚い窓から、この隙間だらけの窓に移って、じいちゃんは大丈夫だろうか。しかし、僕たち家族の結論は、とにかく本人の望むとおりにすることだったので、僕も弟も何も口を出さなかった。ガラス戸にはカーテンはなく、光を乱反射させる凹凸模様が刻まれており、外からの視線を遮りつつ、室内に柔らかな光を取り込んでいた。

 じいちゃんが実家に帰ったのは、ゴールデンウィーク前だ。昼間は看護師やヘルパーが来てくれるので、僕たち家族四人は、交代で実家に泊まり込むことにした。病院ではあまり食欲がなかったじいちゃんだったが、実家に戻ってからは、食べたいときに食べたいものを食べるという生活になり、少しずつ食欲が出てきたようだ。

 僕がはじめて泊まった日、家から持ってきた夕食ではなく、インスタントラーメンが食べたいというので、じいちゃんが好きだというチキンラーメンを作った。三分の一ほどの量だったが、じいちゃんは美味しそうに食べてくれた。

 次に泊まった日は、まだ昼の明るさが残る時間帯だった。磨りガラスを通して和室に差し込む光の中を、気持ちの良い風が吹き抜けている。しばらく、ベッドで横になったじいちゃんと話していると、「ワインが飲みたい」という。一瞬迷ったが、家族で決めたとおり、僕はコンビニにワインを買いに走った。そこで見つけたのが、ストローで飲む二百CCの赤ワインだった。

 ストローを伸ばしてパックの差込口に固定し、チーズを一口食べるのを見て、じいちゃんにワインを差し出した。

「うまいなあ、一年ぶりや」じいちゃんは、うれしそうに二口飲んだ。

「あとはまた明日、残りは冷蔵庫にいれといて」とじいちゃん。

冷蔵庫を開けると、その光に照らされたのは、「楽園」というワインのラベルだった。



香天集5月24日 谷川すみれ、嶋田静、春田真理子ほか

香天集5月24日 岡田耕治 選

谷川すみれ
葉桜に溺れていれば烏来る
若葉風象の涙を見ておりぬ
戒名のなき骨壺や初蛍
目標は遠くて遠い楠若葉

嶋田 静
バラの名にかがみておれば風生まる
蒜山の薫風帰りたくないの
風薫る昭和ガラスの我が家かな
芍薬の白がどっしり唐津壺

春田真理子
新芽出る神棚祀る榊にも
南無南無と揺れる紐より蝌蚪生る
実直に生きよの教え岩鏡
連峰の夏めく貌シーツ干す

古澤かおる
初夏の湿らせて焼くフランスパン
畑にて昼寝つるりと五分ほど
煮付けは烏賊醤油は島の濃い口で
事業所前スーツ姿の溝浚え

宮下揺子
花樒散歩以外のことを課す
さよならを言い出せぬまま薔薇飾る
泰山木の花心へと負荷をかけ
薄くなる肯定感や額の花

田中仁美
春暁の海峡渡る祈りかな
春寒の洞窟ホテル猫と居る
アヴァノスの陶工の指春寒し
春の水地下宮殿の涙柱

河野宗子
花ばらに鼻を近づけキスを受く
ジャスミンの香のしつこさが家に来る
春眠の中のひととき母と逢う
友来たるあたり一面皐月かな

松田和子
ブルーインパルス吹奏楽の風光る
防災の鯖缶を出しはりつめる
口に虫咥えし燕雛が待つ
米寿の夏ステーキペロリ食べ終える

〈俳句物語〉 岡田耕治
風薫る昭和ガラスの我が家かな 嶋田 静
 じいちゃんが抗癌剤治療を止めて、自宅に帰ると言い出したのは、三月末のことだった。ケアマネージャーと相談の上、訪問診療に切り換えることになった。父と母、それに僕と弟は、一年間そのままにしていた実家を片付け、なんとかじいちゃんを受け入れるスペースを確保した。
 実家は、昭和三十年代の後半に建てられた木造の平屋だ。レンタルした電動ベッドを設置するため和室を片付け、補助金を使ってトイレまでの動線に手摺りを取り付けた。四月になってもまだ肌寒い日があり、外窓だけでなく、廊下と座敷を仕切る木製の引き戸にも隙間があったため、風が吹くたびにガラスがカタカタと鳴る音がした。
 病院の空調が効いた分厚い窓から、この隙間だらけの窓に移って、じいちゃんは大丈夫だろうか。しかし、僕たち家族の結論は、とにかく本人の望むとおりにすることだったので、僕も弟も何も口を出さなかった。ガラス戸にはカーテンはなく、光を乱反射させる凹凸模様が刻まれており、外からの視線を遮りつつ、室内に柔らかな光を取り込んでいた。
 じいちゃんが実家に帰ったのは、ゴールデンウィーク前だ。昼間は看護師やヘルパーが来てくれるので、僕たち家族四人は、交代で実家に泊まり込むことにした。病院ではあまり食欲がなかったじいちゃんだったが、実家に戻ってからは、食べたいときに食べたいものを食べるという生活になり、少しずつ食欲が出てきたようだ。
 僕がはじめて泊まった日、家から持ってきた夕食ではなく、インスタントラーメンが食べたいというので、じいちゃんが好きだというチキンラーメンを作った。三分の一ほどの量だったが、じいちゃんは美味しそうに食べてくれた。
 次に泊まった日は、まだ昼の明るさが残る時間帯だった。磨りガラスを通して和室に差し込む光の中を、気持ちの良い風が吹き抜けている。しばらく、ベッドで横になったじいちゃんと話していると、「ワインが飲みたい」という。一瞬迷ったが、家族で決めたとおり、僕はコンビニにワインを買いに走った。そこで見つけたのが、ストローで飲む二百CCの赤ワインだった。
 ストローを伸ばしてパックの差込口に固定し、チーズを一口食べるのを見て、じいちゃんにワインを差し出した。
「うまいなあ、一年ぶりや」じいちゃんは、うれしそうに二口飲んだ。
「あとはまた明日、残りは冷蔵庫にいれといて」とじいちゃん。
冷蔵庫を開けると、その光に照らされたのは、「楽園」というワインのラベルだった。
*死ぬ時はこれがいいねと更衣 岡田耕治

2026年5月17日日曜日

遠足の傷の手当を正しけり 湯屋ゆうや

〈俳句物語〉 岡田耕治

遠足の傷の手当を正しけり 湯屋ゆうや

 空の弁当箱がシンクのボウルに浸けてあるのを見て、今日の遠足は楽しかったんだと思った。塾のある日は別々に食べるが、今夜は幸平と夕食を共にし、話を聞こうと帰りを待った。

 午後八時、ドアが開いた。帰宅した幸平の額には、一枚の絆創膏。

「どうしたの」と訊くと、ジェットコースターの一番乗り競争をして、坂道で転んだのだという。

「痛かったでしょう。あ、少し血が滲んでるわね。貼り替えようか」

 引率の教員が貼ってくれた絆創膏をゆっくり剥がし、消毒液で優しく拭う。少し小さめの新しい絆創膏を貼り直しながら尋ねた。

「みさき公園は、久しぶりだったわね」

「うん、小三の時にお父さんと行って以来かな」

「閉園になるって聞いたけど、どうだった?」

「アトラクションはそのまま遊べたけど、動物園の方はちょっと寂しかったかな。面白かったのはジェットコースターと、パイレーツ。あと、お弁当も美味しかったよ」

「ありがとう。職場の同僚やPTAでも、みんな高学年になると、すぐシャッターを下ろしてしまうって聞くわ。幸平が何でも話してくれてうれしい」

幸平は照れたように言った。

「いや、お母さんがいっつも楽しそうだから」




香天集5月17日 湯屋ゆうや、三好広一郎、柴田亨、佐藤浩章ほか

香天集5月17日 岡田耕治 選

湯屋ゆうや
遠足の傷の手当を正しけり
鴉から慕われている立夏の子
メロン剥き勧めることを怠りぬ
初夏の机を清め手紙書く

三好広一郎
蛇衣を脱ぐ試着室はありません
初夏が待つ降りたホームの向い側
種蒔いて大地は天に近づけり
春のソナタ指は天から舞い降りて

柴田亨
甲羅干し水の明るき静止かな
もういない自転車少年木下闇
数知れぬ羽の誘惑藤の夢
桜桃忌二線抹消帳簿閉ず

佐藤浩章
吽形も口を開かむ炎天下
風涼し犬山城の廻縁
追手筋日曜市の声涼し
露涼し地蔵菩薩ををろがみて

牧内登志雄
夏日射ハシビロコウの動かざり
麦秋や秘密基地より青い空
鎌倉に谷地三方の若葉かな
一湾をゆるりとわたる緑雨にて

楽沙千子
夏祓社殿の闇に鳥さわぐ
花びらの風にあおられ花椿
蚕豆の程よくなりぬ天を向き
夏帽を目深にかぶり集中す

岡田ヨシ子
昼食をキャンセルし待つ春弁当
入所した友に俳句の五月号
俳句集初夏から語りはじめおり
ファッションを学び直せり夏ベスト

川端大誠
夏の風ダイヤモンドを駆け回る

川端勇健
映画観て余韻に浸る青嵐

川端伸路
朝昼晩揚げ物となる子供の日


〈俳句物語〉 岡田耕治
遠足の傷の手当を正しけり 湯屋ゆうや

 空の弁当箱がシンクのボウルに浸けてあるのを見て、今日の遠足は楽しかったんだと思った。塾のある日は別々に食べるが、今夜は幸平と夕食を共にし、話を聞こうと帰りを待った。

 午後八時、ドアが開いた。帰宅した幸平の額には、一枚の絆創膏。
「どうしたの」と訊くと、ジェットコースターの一番乗り競争をして、坂道で転んだのだという。
「痛かったでしょう。あ、少し血が滲んでるわね。貼り替えようか」
 引率の教員が貼ってくれた絆創膏をゆっくり剥がし、消毒液で優しく拭う。少し小さめの新しい絆創膏を貼り直しながら尋ねた。

「みさき公園は、久しぶりだったわね」
「うん、小三の時にお父さんと行って以来かな」
「閉園になるって聞いたけど、どうだった?」
「アトラクションはそのまま遊べたけど、動物園の方はちょっと寂しかったかな。面白かったのはジェットコースターと、パイレーツ。あと、お弁当も美味しかったよ」

「ありがとう。職場の同僚やPTAでも、みんな高学年になると、すぐシャッターを下ろしてしまうって聞くわ。幸平が何でも話してくれてうれしい」
幸平は照れたように言った。
「いや、お母さんがいっつも楽しそうだから」

*青空の穴からこぼれ天道虫 岡田耕治

2026年5月10日日曜日

そして今ひねもす箱庭を弄る 玉記 玉

〈俳句物語〉 岡田耕治

そして今ひねもす箱庭を弄る 玉記 玉

 父の四十九日の法要で持ち帰ったのは、二十枚の色紙が入った桐箱だった。実家を継いだ兄は土地や建物を相続し、私は預金と共にこの桐箱を形見分けとして受け取った。手狭な1LDKのマンションには、この桐箱一つで充分だった。

 二十枚の色紙のうち、父の句は三枚だけで、残りは他の俳人からのものだった。季節ごとに父の句を入れ替えているが、夏の句がなかったため、代わりに「馬なればわれ透明の馬ならむ 安正」という句を夏用にした。

 秋、冬、春は色紙の額の下に一輪の花を飾ってきた。しかし、夏用の句に合うものを探すうち、「枯山水セット」を見つけた。ミニチュアの枯山水は、この「透明な馬」である「われ」の存在感をより引き立ててくれるように感じられた。

 当初は説明書通りに砂に紋様を描き、石を配置するだけで済ませるつもりだったが、砂を弄(いじ)るうちに、中学生の頃の箱庭作りの感触が蘇ってきた。学校を休みがちだった当時、医師の勧めで何度か箱庭を作った経験がある。最初は戸惑ったが、次第にミニチュアの木やベンチ、フィギュアを思い通りに配置できることに集中し、没頭していった。

 現在従事しているオペレーターという仕事は、パソコン初心者を相手にすると、「マウス」や「ブラウザ」といった基本的な言葉さえ通じないことがある。目に見えない画面を言葉だけでナビゲートするには「忍耐力」が求められ、さらに電話対応の短縮も要求される。「今すぐ解決しろ」という強いプレッシャーを受け、時には大声で怒鳴られることさえある。

 このような厳しい仕事の日の後、自宅に帰って白い砂を弄ると、自然と心が落ち着く。今はセットの波石ではなく、買い集めたカプセルトイ(ガチャガチャ)のフィギュアを配置し、ゆるい表情の動物たちが日常を楽しむ様子を眺めている。そうすることで、この小さな庭の中に、プレッシャーから解放された「透明な私」が遊んでいるような、穏やかなひとときが訪れるのである。



香天集5月10日 玉記玉、三好つや子、佐藤静香ほか

香天集5月10日 岡田耕治 選

玉記玉
新緑を切り取ることを生業に
花蘇芳なんて内向的な紅
そして今ひねもす箱庭を弄る
雨蛙置けば机が歪なり

三好つや子
フリースクールたんぽぽが時間割
新じゃがの正論ほろり煮崩れる
竹皮を脱いで見事な斬られ役
天道虫六法全書にないルール

佐藤静香
新緑や波長重なる大拍手
春の昼あやかしたちの囲碁大会
墨彩画の一色の妙若葉風
春昼の皿の心地は薔薇色に

高野旅愁
眠られず広辞苑が立っており
風呂に入る雀という街に一日
あかぎれや皆眠るとき星堕ちて
春の鳥鳴くからかの地に思い馳せ

垣内孝雄
切通し道のそよげる新樹光
にわとこの見ゆるベンチに小半時
蜆汁そふる夕餉や老ふたり
篁の匂ひさやけき五月かな

川村定子
引く彼は若芽のみどり残しおり
手庇の内はあまねく花盛り
桜鯛まな板にあるむ目よ
春霞入日見せずに夜に入る

西前照子
震災で帰らぬ友よ十五年
春の畝腰の痛みへ種をまく
入り彼岸三姉弟がそろい来る
春障子忘れし友の写真あり

〈俳句物語〉 岡田耕治
そして今ひねもす箱庭を弄る 玉記玉
 父の四十九日の法要で持ち帰ったのは、二十枚の色紙が入った桐箱だった。実家を継いだ兄は土地や建物を相続し、私は預金と共にこの桐箱を形見分けとして受け取った。手狭な1LDKのマンションには、この桐箱一つで充分だった。
 二十枚の色紙のうち、父の句は三枚だけで、残りは他の俳人からのものだった。季節ごとに父の句を入れ替えているが、夏の句がなかったため、代わりに「馬なればわれ透明の馬ならむ 安正」という句を夏用にした。
 秋、冬、春は色紙の額の下に一輪の花を飾ってきた。しかし、夏用の句に合うものを探すうち、「枯山水セット」を見つけた。ミニチュアの枯山水は、この「透明な馬」である「われ」の存在感をより引き立ててくれるように感じられた。
 当初は説明書通りに砂に紋様を描き、石を配置するだけで済ませるつもりだったが、砂を弄(いじ)るうちに、中学生の頃の箱庭作りの感触が蘇ってきた。学校を休みがちだった当時、医師の勧めで何度か箱庭を作った経験がある。最初は戸惑ったが、次第にミニチュアの木やベンチ、フィギュアを思い通りに配置できることに集中し、没頭していった。
 現在従事しているオペレーターという仕事は、パソコン初心者を相手にすると、「マウス」や「ブラウザ」といった基本的な言葉さえ通じないことがある。目に見えない画面を言葉だけでナビゲートするには「忍耐力」が求められ、さらに電話対応の短縮も要求される。「今すぐ解決しろ」という強いプレッシャーを受け、時には大声で怒鳴られることさえある。
 このような厳しい仕事の日の後、自宅に帰って白い砂を弄ると、自然と心が落ち着く。今はセットの波石ではなく、買い集めたカプセルトイ(ガチャガチャ)のフィギュアを配置し、ゆるい表情の動物たちが日常を楽しむ様子を眺めている。そうすることで、この小さな庭の中に、プレッシャーから解放された「透明な私」が遊んでいるような、穏やかなひとときが訪れるのである。

*怖いものなくなる青葉若葉かな 岡田耕治

2026年5月3日日曜日

饒舌の海峡に転け潮招  森谷一成

 〈俳句物語〉 岡田耕治

饒舌の海峡に転(こ)け潮招 森谷一成

 私は潮招(シオマネキ)のメスです。私たちの暮らしをご存じでない方もいらっしゃるでしょうから、少しお話します。私たちはカニの一種で、オスの片方のハサミがとても大きく成長します。それが潮を招いているかのように見えるので、シオマネキと呼ばれています。

 河口近くの、引き潮で泥が露出する干潟が、私たちにとって一番居心地のいい場所です。泥に深い縦穴を掘って暮らしており、この穴は外敵から身を守るだけでなく、満潮時に水没する間、静かに過ごすための私だけの個室でもあります。

 オスは巨大なハサミを上下に振り、私たちメスに向かって猛烈にアピールしてきます。私はオスたちのダンスを比べ、ハサミの大きさと、その振りの速さから彼を選びました。彼の巣穴へと入り、お腹とお腹を合わせたのです。その後、彼は気前が良く、自分の巣穴を私に譲ってくれたので、卵を抱いて大切に育てることにしました。

 彼は外に出て、新しい穴を掘るのかなと見ていたら、なんと彼はまたあの大きなハサミを振り始めたではありませんか。私たちは、基本的に夫婦で一緒に暮らすことはありません。それでも、せめてこの卵たちを海に放つまで、この巣穴を外敵からガードするものとばかり思っていました。

 私の個室から見える海峡は、いつも激しい潮の流れが押し寄せていますが、このところ、波がぶつかり合い、渦を巻き、轟々と音を立てています。どうも潮の流れだけではない、不穏な音が混じっているようです。この「饒舌な海峡」の騒めきは、命の危険を知らせているのかもしれません。それなのに、彼はその警告に耳を傾けることなく、ひたすら自己顕示のためにハサミを振り続けています。

 そう考えているうち、巣穴も掘らず、私や卵を守ることもせず、激しくハサミを振りまくっていた彼は、ついに勢いよく寄せてきた潮に押され、あっけなく転(こ)けてしまいました。あれほど自信たっぷりだった大きなハサミは、彼を守ってはくれませんでした。大きくて速いハサミこそが良い、この干潟の価値観は、いま、見直す時が来ているのかもしれません。