2026年9月7日月曜日

夏惜しむ解のない本立ち並び 玉記玉

〈俳句物語〉 岡田耕治

夏惜しむ解のない本立ち並び 玉記玉

 彼は大学の非常勤講師を務めている。大学院の博士課程を修了して5年が経つが、18歳人口の減少の波は容赦なく大学業界を浸食していた。あちこちの大学で募集停止や統廃合が囁かれ、かつては学問の象徴であったはずのキャンパスが次々と姿を消していく。それに伴い、助教や専任講師といった正規のポストへの道は、年を追うごとに狭き門となっている。

 非常勤講師の生活は、常に綱渡りだ。1コマ単位の契約であり、例えば半期(4月から8月)に1コマ(15回)を担当したとしても、月々の手取りはわずか3万円程度にすぎない。しかも授業が行われない3月と9月は無収入になるため、生活を維持するためには前期・後期ともに最低でも週7コマ以上を死守しなければならない。複数の大学を掛け持ちし、満員電車に揺られながら講義をこなして、ようやく得られる年収は210万円ほど。彼の専門である社会科教育の講義と、得意な英語の講義を合わせて、現在は3つの大学で年間15コマを何とか担当している。

 夏の盛り、前期の講義がすべて終わり、山積みの期末レポートを前にすると、決まって胸の奥に冷たい虚しさが広がった。

「自分は、いったい何のためにここで教えているのだろう」

 そう自問せずにはいられないほど、提出される学生のレポートには、生成AIによって書かれたと確信できるものが溢れていた。誤字脱字は皆無で、文法も段落構成も完璧。一見するときわめて洗練されていて、読みやすい。しかし、そこに書かれているのは抽象的で総論的な表現ばかりであり、結論は決まって誰からも非難されない「安全策」に落ち着いている。整然と並ぶ、魂の通っていないレポートを一枚一枚めくり、淡々と点数をつけていると、まるで自分の人生そのものをすり減らしていくかのような虚しさに襲われる。

 このままでは、教える側も学ぶ側も干からびてしまう。そう感じた彼は、この夏の課題を大きく変更することにした。

「今後自分が授業を作る上で、探求し続けたい『問い』を100字以内で表現し、15回のどの学びに着想を得てその問いに至ったのかという背景を400字以内で記述しなさい」

 この試みは、想像以上の変化をもたらした。提出された課題の字数は従来の半分になり、何より一枚一枚のレポートから、学生たちの生の体温が伝わってくるようになった。最初の100字に書かれているのは、インターネットの海に漂う「過去の既製の答え」ではない。回答する学生自身がこれから向き合っていこうとする、切実な「未来の問い」だった。

「過疎地のバスを廃止すれば、そこに住むお年寄りの『移動の自由』はどう保障されるべきか」

「アルバイト先で不当な労働を強いられた時、私たちは法を武器にどう自分を守るべきか」

 拙くとも、必死に頭を悩ませて紡ぎ出された言葉たち。それらを読んでいると、彼自身の胸の奥にも、眠っていた熱い火が再び灯るのを感じた。レポートを採点する時間は、いつしか彼にとって、自らの授業をより良くするためのヒントに満ちた対話の時間へと変わっていった。

 彼の専門である「公共」という科目は、暗記中心の古い社会科から脱却し、「正解のない社会課題に対して、自分ならどう判断するか」を主体的、対話的に考えるためにある。答えがないからこそ、彼の質素なアパートの本棚には、哲学的思索の本、社会の対立や倫理的葛藤を扱う本、先端科学や社会課題の境界線を扱う本が、ぎっしりと、そして誇らしげに並んでいる。本棚を眺める彼の目には、かつて研究を志した頃の純粋な輝きが戻っていた。学生たちの問いに励まされるようにして、彼は久しぶりに、自分のために買っておいた本を開く時間を作り出すことができた。

 そんな8月の半ば、一番多くのコマ数を持っていた大学の人事担当から、一通のメールが届いた。それは、彼を特任助教として、9月から2年間採用するという通知だった。社会科を担当する教授が「サバティカル制度」を利用してアメリカの大学へ長期研修に赴くことになり、その代講として期限付きの教員募集が出ていたのだ。彼は春先に祈るような気持ちでそれに応募した。2年という期限付きではあるものの、ついに「非常勤」のループから一歩踏み出し、自らの足で研究者としてのスタートラインに立つことができるのだ。

 8月15日。彼は母校のキャンパスの隣にある、木々の生い茂る公園にいた。涼やかな音を立てて上がる噴水を見つめながら、彼は隣に立つ女性の手を握り、静かな声でこう告げた。

「学生時代から6年間、自分の不確かな未来をずっと支えてくれて、本当にありがとう。秋から大学の助教として働けることになったよ。ここからが研究者としての本当のスタートだし、まだまだ険しい道かもしれない。でも、これからの人生もずっと、あなたと一緒に歩んでいきたい。僕と、結婚してください」

夏惜しむ解のない本立ち並び 玉記玉



香天集9月6日 玉記玉、森谷一成、佐藤静香、釜田きよ子ほか

香天集9月6日 岡田耕治 選

玉記玉
夏惜しむ解のない本立ち並び
無花果の葉の暗がりへ迂回せよ
うす蒼き墨書に姿態十三夜
ミューズとは水に匂える鰯雲

森谷一成
渋滞灼くる迷彩服の真横なり
饒舌を殺してあげるアイスバー
スカートへ跳び縄かかる敗戦日
食パンの耳にとどまり秋暑し

佐藤静香
八月や魚礁となりし沈没船
地平線へ消ゆるハリマオ初嵐
百年を一夜と思ふ生身魂
石一つ墓標となりぬ夏の峰

釜田きよ子
逝く夏の雲の色にも疲れ見え
空蝉の飛んでも見たき青い空
鬼百合の鬼の部分を隠しけり
裸足にて地球の丸さ確かめる

佐藤浩章
仏飯の湯気やはらかや冬近し
告げず逝く猫のならわし秋の虹
今日の月和室の丸き明かり窓
蒼穹のひとり芝居を松手入

佐藤諒子
みんみん蝉仕舞いすることふとよぎり
亡き父母の声溢れくる大夕焼
秋の蚊の確かめており風の音
天の川見上げし父の息若し

神谷曜子
後戻りできない地球熱帯夜
深眠る体内にある涼しさに
原爆忌美輪明宏を語り合う
熊本の地震再び夏の雲

小﨑ひろ子
転居後の荷物の中に揚羽あり
転送をされ来し俳誌今朝の秋
呼吸せりつきかげのある庭に出て
本の間を裸足で歩く鈴虫鳴く

宮崎義雄
朝潮やタモをはみ出す居着ちぬ
釣人の覗けるスカリ居着ちぬ
盂蘭盆の袈裟をなびかせスクーター
秋出水車中の人の流れ来る

楽沙千子
大西日満ちしポストへ投函す
半世紀泉州に住む端居かな
畳目にのばす膝裏夜の秋
秋暑し市が配りたる備蓄水

垣内孝雄
道端に空缶ふたつ草の花
いとほしきあの娘の庭よゆすらうめ
厚切りのトーストひとつ今朝の秋
秋茄子を上手に煮付け古女房

半田澄夫
男日傘太陽の位置知ることに
雲の峰検査結果に異常なし
車椅子押しつ踊らん盆太鼓
炎帝を意にも介さずランドセル

上原晃子
畑畝のコスモス二輪梅雨上がる
見つけたりこんなところに茗荷の子
猫じゃらし売地広しと風遊ぶ
あめんぼの小さな水の家族かな

松田和子
藁葺きと友禅菊の里しずか
花野風騒がしくなり明日香村
ひっそりと木守二つ嵯峨野道
秋桜聞くともなしに鳥の鳴く

川合道子
宇宙から帰るあさがお我が庭に
信号の赤に変われる酷暑かな
夏山のゴンドラ一人空散歩
散歩するどこまでも蝉時雨かな

市太勝人
「王国を倒せ」短夜寝不足に
梅雨あがる本格中華八宝菜
盛り上がる同率同士夏休み
モルツ祭ビール一杯飲み放題

大西孝子
天高く大輪の花咲き乱れ
白目高眺めていたる夕べかな

〈俳句物語〉 岡田耕治

夏惜しむ解のない本立ち並び 玉記玉

 彼は大学の非常勤講師を務めている。大学院の博士課程を修了して5年が経つが、18歳人口の減少の波は容赦なく大学業界を浸食していた。あちこちの大学で募集停止や統廃合が囁かれ、かつては学問の象徴であったはずのキャンパスが次々と姿を消していく。それに伴い、助教や専任講師といった正規のポストへの道は、年を追うごとに狭き門となっている。
 非常勤講師の生活は、常に綱渡りだ。1コマ単位の契約であり、例えば半期(4月から8月)に1コマ(15回)を担当したとしても、月々の手取りはわずか3万円程度にすぎない。しかも授業が行われない3月と9月は無収入になるため、生活を維持するためには前期・後期ともに最低でも週7コマ以上を死守しなければならない。複数の大学を掛け持ちし、満員電車に揺られながら講義をこなして、ようやく得られる年収は210万円ほど。彼の専門である社会科教育の講義と、得意な英語の講義を合わせて、現在は3つの大学で年間15コマを何とか担当している。
 夏の盛り、前期の講義がすべて終わり、山積みの期末レポートを前にすると、決まって胸の奥に冷たい虚しさが広がった。
「自分は、いったい何のためにここで教えているのだろう」
 そう自問せずにはいられないほど、提出される学生のレポートには、生成AIによって書かれたと確信できるものが溢れていた。誤字脱字は皆無で、文法も段落構成も完璧。一見するときわめて洗練されていて、読みやすい。しかし、そこに書かれているのは抽象的で総論的な表現ばかりであり、結論は決まって誰からも非難されない「安全策」に落ち着いている。整然と並ぶ、魂の通っていないレポートを一枚一枚めくり、淡々と点数をつけていると、まるで自分の人生そのものをすり減らしていくかのような虚しさに襲われる。
 このままでは、教える側も学ぶ側も干からびてしまう。そう感じた彼は、この夏の課題を大きく変更することにした。
「今後自分が授業を作る上で、探求し続けたい『問い』を100字以内で表現し、15回のどの学びに着想を得てその問いに至ったのかという背景を400字以内で記述しなさい」
 この試みは、想像以上の変化をもたらした。提出された課題の字数は従来の半分になり、何より一枚一枚のレポートから、学生たちの生の体温が伝わってくるようになった。最初の100字に書かれているのは、インターネットの海に漂う「過去の既製の答え」ではない。回答する学生自身がこれから向き合っていこうとする、切実な「未来の問い」だった。
「過疎地のバスを廃止すれば、そこに住むお年寄りの『移動の自由』はどう保障されるべきか」
「アルバイト先で不当な労働を強いられた時、私たちは法を武器にどう自分を守るべきか」
 拙くとも、必死に頭を悩ませて紡ぎ出された言葉たち。それらを読んでいると、彼自身の胸の奥にも、眠っていた熱い火が再び灯るのを感じた。レポートを採点する時間は、いつしか彼にとって、自らの授業をより良くするためのヒントに満ちた対話の時間へと変わっていった。
 彼の専門である「公共」という科目は、暗記中心の古い社会科から脱却し、「正解のない社会課題に対して、自分ならどう判断するか」を主体的、対話的に考えるためにある。答えがないからこそ、彼の質素なアパートの本棚には、哲学的思索の本、社会の対立や倫理的葛藤を扱う本、先端科学や社会課題の境界線を扱う本が、ぎっしりと、そして誇らしげに並んでいる。本棚を眺める彼の目には、かつて研究を志した頃の純粋な輝きが戻っていた。学生たちの問いに励まされるようにして、彼は久しぶりに、自分のために買っておいた本を開く時間を作り出すことができた。
 そんな8月の半ば、一番多くのコマ数を持っていた大学の人事担当から、一通のメールが届いた。それは、彼を特任助教として、9月から2年間採用するという通知だった。社会科を担当する教授が「サバティカル制度」を利用してアメリカの大学へ長期研修に赴くことになり、その代講として期限付きの教員募集が出ていたのだ。彼は春先に祈るような気持ちでそれに応募した。2年という期限付きではあるものの、ついに「非常勤」のループから一歩踏み出し、自らの足で研究者としてのスタートラインに立つことができるのだ。
 8月15日。彼は母校のキャンパスの隣にある、木々の生い茂る公園にいた。涼やかな音を立てて上がる噴水を見つめながら、彼は隣に立つ女性の手を握り、静かな声でこう告げた。
「学生時代から6年間、自分の不確かな未来をずっと支えてくれて、本当にありがとう。秋から大学の助教として働けることになったよ。ここからが研究者としての本当のスタートだし、まだまだ険しい道かもしれない。でも、これからの人生もずっと、あなたと一緒に歩んでいきたい。僕と、結婚してください」

夏惜しむ解のない本立ち並び 玉記玉

*花梨の実アイデアを絵にしていたる 岡田耕治

2026年8月30日日曜日

香天集8月30日 渡邉美保、中嶋飛鳥、辻井こうめ他

香天集8月30日 岡田耕治 選

渡邉美保
青鷺の夕影揺れてゐる水面
盆提灯吊り草色の兄のこゑ
古井戸を覗いてゐたり今朝の秋
鶺鴒に崖つ縁へと誘われる

中嶋飛鳥
墓原へ昔とんぼを先立てて
面面の誰彼と無し小鳥来る
百葉箱へ秋蛇の擦過音
平仮名にすれば澄みたり虫の秋

辻井こうめ
新生姜紫蘇にむらさき賜ひをり
水拭きの床にゴロンと大南風
誰か知る高野箒の花さかり
おでましは隣町より竜田姫

古澤かおる
枯向日葵後ろへ回り眺めけり
向日葵の枯れつつ太き声出しぬ
脂ぎる男にピアス大夕焼
扇買う母の扇に似た色の

橋本喜美子
百一歳生きていますとマスクメロン
急流に食らひ付きたり水馬
マンゴーや名カフェ風に切り分けて
山鉾のはつと息止め辻回し

北橋世喜子
背を丸めやっと脱げたる汗のシャツ
西瓜割一人の声を頼りとす
指揮棒や一斉に合う蝉時雨
モンゴルの飲み込まれいる天の川

中島孝子
炎天の壁を閉ざせり園児の顔
町並みを丸ごと写し田水沸く
蝉時雨波打つ音に吸い込まれ
水すくう蕗の広葉を丸めいて

河野宗子
和三盆の糖ほどけゆく合歓の花
甲子園の熱戦つづく娘の手術
葉脈の波打っている擬宝珠かな
裏庭の桔梗を写し友のこと

田中仁美
目覚めれば手術の終わり蝉しぐれ
麻酔から覚めたるうつつ秋の風
退院の窓から入れて秋の風
夕涼の靴紐キュッと散歩する

林おうはく
幾億年かけて旅路の天の川
夜の音つかみ損ねる夏つばき
青鷺や首をかしげて鯉を見る
ツィーと来て我を見て去る蜻蛉かな

吉丸房江
地球儀のどこへ廻すも猛威の夏
くれぐれも御無理なさらず蝉しぐれ
水に浸けラグビーシャツの熱帯魚
新作のマネキンにして秋の風

〈選後随想〉 岡田耕治
鶺鴒に崖つ縁へと誘われる 渡邉美保
 小刻みに動く鶺鴒(セキレイ)の姿が、まるで導き手のように崖の縁へと見る者を誘う。小さな鳥の軽快さと、足元の危うい崖っぷちとの対比が、緊張感を際立たせる。気がつくと、私たちは「際」の世界へ引き込まれそうになっていますよ、そんな美保さんの静かな声が聞こえてくる。

面面の誰彼と無し小鳥来る 中嶋飛鳥
 集まろうとしている「面面」は、どんな人たちだろうか。そこに、気ままに飛来する小鳥たち。「誰彼と無し」という表現に、小鳥たちの無邪気さと、世間の煩わしさから解き放たれようとする時間の柔らかさを感じる。飛鳥さんには、集まってくる面面もまた小鳥のように見えたのかもしれない。

 水拭きの床にゴロンと大南風 辻井こうめ
 拭き上げたばかりの床のひんやりとした感触と、そこに寝転がったときの解放感。そこへ湿った「大南風」が吹き抜けてくる。水拭きの終わった静かな空間に、「大南風」という激しいエネルギーが乱入するという、こうめさんのこの動的な対比が、今年の夏の体感を鮮明に描き出している。

*どこまでもコンクリートの穴惑 岡田耕治

2026年8月27日木曜日

香天本誌84号

 香天本誌84号 ←こちらから本文をご覧いただけます。


香天 koten   2028年8月   通巻84号
目次

招待作品           2 本幡楽径
代表作品           4 岡田耕治
受賞作品           7 夏 礼子
同人集            8 50音順送り 本号は「い」から
                岩橋由理子、上田真美ほか
同人集五句抄        26 砂山恵子、髙橋もこ他
同人作品評         27 森谷一成
特集・湯屋ゆうや句集『平飼卵』
こんな句、見たことない   30 安田中彦
響く身体          33 森谷一成
句集『平飼卵』         35 渡邉美保、柴田 亨
『平飼卵』作品鑑賞     40 西本君代、谷川すみれ
自選20句・句集を上梓して 42 湯屋ゆうや
香天集十句選        44 佐藤静香
季語随想          46 三好つや子
随想・エッセイ       47 綿原芳美、辻井こうめ
俳句物語          50 岡田耕治
香天集  岡田耕治 選     62 渡邉美保、玉記 玉ほか
 選後随想         95 岡田耕治
句会案内          96

2026年8月23日日曜日

香天集8月23日 加地弘子、谷川すみれ、夏礼子、柏原玄ほか

香天集8月23日 岡田耕治 選

加地弘子
ベーコンと炒めるキャベツ透き通る
白きもの不思議に動く蟻の道
手花火や大人ばかりとなりにけり
雲の峰片足立ちを得意とす

谷川すみれ
七夕やすぐに白紙に変えており
青蜜柑小さな傷の匂いけり
その家の色になりたり夕化粧
ガラス戸の向うは夢よねこじゃらし

夏礼子
寝返りの波の数ほど明易し
頭より記号めく声水中花
生温き水を飲みこむ敗戦日
熱帯魚パントマイムの始まりぬ

柏原玄
今上の深き吐息や沙羅の花
原爆手帳八月六日を語る父
残照の今を確かにつくつくし
あこがれて憧れられて生身魂

春田真理子
炎天の一輪車押す現場女子
地境を越えて座りし南瓜かな
旱星家へ帰らず斎場へ
月碧し他界へ捧ぐ麩まんじゅう

嶋田静
放哉の句が風鈴と揺れてあり
「蝉の声聞こえますか」と始まりぬ
まだ咲かぬ朝顔一花待っており
秋暑し右脳左脳と交錯し

金童こねみ
何も無いその日が奇跡百日紅
善と悪の間に生きる夾竹桃
盆踊一人一人が主役なり
人生のお釣を生きて盆踊

木村博昭
黒牛の哀しき眼して秋を待つ
塩を舐め蜜を嘗めつつ夏を越す
ゆびきりの指が忘れて夏終る
山頂へ残照のあるつくつくし

砂山恵子
箸使いきれいな人の食む秋刀魚
いたづらを叱りひぐらしただ聞いて
売るものにどこか影あり草の市
八月や肩を並べて迫るもの

木南明子
足垂らす蜂に水かけ宿はどこ
消してより轟く花火聞いており
何もかも放り出したる酷暑かな
赤蜻蛉家に入れば死ぬだけよ

前藤宏子
土用餅もう食べたかとメールせり
夏痩せの気配などなく生きている
抹茶立て静かに秋を待っており
秋暑し飛行機雲ははっきりと

目美規子
盆参り修業の息子従えて
子に見せるライフジャケット雲の峰
加太の海蔦が描ける夏の果
故郷に帰るほかなし遠花火

安部いろん
鬼虎魚死は狼狽えるものでなし
閻魔へと返信をする大西日
大西日終末の笛響かせて
ウロボロスメビウス茅の輪夢幻の輪

森本知美
つくつくし鳴き始めたり六地蔵
肩車空の花火に手を伸ばす
本堂に梅ジュース飲む皆余生
平和とや雄花ばかりのかぼちゃ咲く

安田康子
油照り人も車も不整脈
煮て焼いて炒めて漬ける茄子かな
病葉や乗り越えてくることのあり
命日の心に沁みる蝉の声

松並美根子
じゅうぶんに鳴きて虚空へ油蝉
昨日とは違う風なり猫じゃらし
照り返すビルの眩しや秋雀
秋の空笛や太鼓へちから水

宮下揺子
良いように記憶上書き原爆忌
手の甲の採血跡や胡瓜揉む
酔芙蓉無人の野外劇場に
炎天や戦禍の跡に立っており

俎石山
みたらし団子くわえた犬が通り過ぎ
みたらし団子くわえた仔らの縁かな
冷奴間に挟み恋仇
冷奴突つく相手を間違える

岡田ヨシ子
網戸拭くヘルパーさんが来る前に
汗落とす百円玉の洗濯機
半袖を選ぶテレビの予報にて
かき氷広間に笑顔集まりぬ

川端大誠
夏休み白球を追う私たち

川端勇健
炎天下タオルに座る甲子園

川端伸路
水やりのやる気が出ない夏休み

〈選後随想〉 岡田耕治
手花火や大人ばかりとなりにけり 加地弘子
 かつては子どもたちの歓声で賑わった花火の輪。気がつけば子どもの姿はなく、大人ばかりで小さな火花を見つめている。弘子さんの子ども時代への郷愁と、全員が歳月を重ねて大人になった切なさが漂う。手花火のともしびが、消えゆく人生の時間を静かに際立たせている。

ガラス戸の向うは夢よねこじゃらし 谷川すみれ
 ガラス戸という一枚の隔たりを境に、室内と屋外の世界が鮮やかに対比されている。外で風に揺れるねこじゃらしの風景が、ガラス越しに見ることでどこか幻想的で手の届かない「夢」のように思える感覚。日常のふとした瞬間に宿るすみれさんの詩情と憧れが表現されているようだ。

寝返りの波の数ほど明易し 夏礼子
 熱帯夜が続いているが、寝苦しさに幾度も寝返りを打つうちに、夜が明けてくる。体を裏返す動作を「波の数」と表現することで、礼子さんは、まどろみと覚醒の間を行き来する心地よさと怠さを深く捉えている。白々と明けていく夏の朝の空気感と焦燥感が重くも鮮やかだ。

原爆手帳八月六日を語る父 柏原玄
 多くを語らない父が、原爆手帳を手に静かに口を開いた。玄さんのお父様は、呉の軍港で被爆されたと聞く。被爆の記憶と歴史の傷痕を記したこの手帳は、沈黙の時間を越えて惨禍を伝える証言者となっている。子へ事実を継承しようとする父の強い覚悟、そして「八月六日」の静かな決意が胸に迫る。

地境を越えて座りし南瓜かな 春田真理子
 隣の畑との境界線を、伸びたつるの勢いで軽々と超えて実を結んだカボチャ。人間の作った勝手な境など知る由もなく、大らかに太陽の恵みを吸収して育つ姿にほっこりさせられる。生命力のたくましさと可笑しみ、真理子さんならではの真っ直ぐなユーモアが心地よく表現されている。

放哉の句が風鈴と揺れてあり 嶋田静
 尾崎放哉のどこか寂しく切ない句が、夏の風に鳴る風鈴とともに揺らめいている。句稿を見ると、静かさんは小豆島の「南郷庵(みなごあん)」を訪ねられたようだ。涼やかな音色の中に、ふっと立ち現れる放哉の切なさが余韻として広がる一句だ。

人生のお釣を生きて盆踊 金重こねみ
 先日の泉佐野句会で話題になった句。こねみさんが、与えられたこれからの時間を「人生のお釣り」と表現したところに共感が集まった。どこか肩の力が抜けたこの表現が、生者と死者が交錯するお盆の夜に、生きている歓びを素直に噛みしめる、温かくも深みのある一句の核になっている。

*上薬何も使わず天の川 岡田耕治

2026年8月16日日曜日

香天集8月16日 柴田亨、湯屋ゆうや、三好広一郎、前塚かいち他

香天集8月16日 岡田耕治 選

柴田亨
銀漢やペンダントなる母の骨
八月は憎し愛おし夾竹桃
蛞蝓の虹色の道消えている
うずくまる時の来にけり大蚯蚓

湯屋ゆうや
茸汁母に似てくる吾を笑う
夏の果脚の形に干すズボン
夜業なき日には電話をくれるひと
叱られつ蠅捕紙の下にいる

三好広一郎
シアンのインク激減夏大好き
喜雨の朝善男善女溶き卵
帯紐の紅から燃える晩夏かな
寺町は影多い町秋を待つ

前塚かいち
人類の夕方に咲きサルスベリ
アンパンマンはブッダの化身昼寝覚
ふるさとの除草終えたる夜の秋
もう少し生きよと蝉を放ちけり

加地弘子
やっと会う面会室の星祭り
デンと居る今ほしいのは蠅叩き
蝉しぐれユンボが止まり啼き代わる
八月の米研ぐ右手赤くして

平木桂
ピカドンと呼びし父母盆の月
何もせぬ贅沢な時蝉時雨
相槌を上手く打つ人心太
舞鶴の夏草深み護衛艦

上田真美
みどり児の腕をつたえる玉の汗
指先に汗かく兄の不器用さ
真夏日や出しなに水を亀の背に
風通す混ざらぬように交わりぬ

長谷川洋子
鍵善の扁壺を見たくなる葛よ
涼新た皿なる河井寛次郎
棟方の蓮に釉薬走りけり
ドビュッシー月の光に包まるる

砂山恵子
さつと焼く三伏の夜のみりん干
影もまた色のひとつや夏の山
冷麦や昔の色のハムが出て
青梅や自宅出産三代目

蜻蛉釣
秋暑しドレミの歌を九部刷って
親戚が集まっていた頃の盆
濁酒父のお古の季寄かな
送火の着いていきたい祖母の背な

佐藤浩章
おこぼれのタップダンスや白鶺鴒
法師蝉美空ひばりの大杉に
鳴り渡る宣伝飛行秋暑し
文月や机に満つる圭吾の書

楽沙千子
物音を閉ざしていたる炎暑かな
捕虫網立てかけて今ゲーム中
無となりて写経に向かう涼新た
秋めくや書き溜めし絵を整える

〈作品鑑賞〉 岡田耕治
銀漢やペンダントなる母の骨 柴田亨
 広大な宇宙の銀河と、ペンダントの中に収められた母の遺骨。この対極にあるミクロとマクロの対比が鮮烈だ。死者は、星の海へ還るという思いも想起でき、物理的な距離を超えて母と子のつながりを永遠のものとして描き出している。静謐さの中のこの諦念は、美しい。

叱られつ蠅捕紙の下にいる 湯屋ゆうや
 叱責を受けた直後の、逃げ場のない気まずさと重苦しい空気が見事に切り取られている。蠅捕紙という懐かしい道具が、その場の湿り気や閉塞感、そして子どもの言いようのない疎外感を視覚と触覚の両面から呼び覚ます。写実的でありながら、心理描写に長けた佳句。

寺町は影多い町秋を待つ 三好広一郎
 寺町という空間の持つ独特の静寂と歴史の重なりが、「影多い」という措辞によって象られている。晩夏光が落とす濃い影に、どこか死者の気配や歳月の深みが重なる。「秋を待つ」という結びにより、作者が「秋」として表現したかったのは何かを想うことができる。

人類の夕方に咲きサルスベリ 前塚かいち
 「人類の夕方」という時間感覚を提示し、そこに平然と咲くサルスベリを配したことで、文明の終焉と自然の生命力が対比されている。敢えてカタカナで表記したことによって、時間の流れを冷徹に見つめつつ、この時代の不安を感じさせる、極めて哲学的な一句となった。

*秋風を待つことにするグラスかな 岡田耕治

2026年8月9日日曜日

一歳へ裸の乳に文字を描く 宮崎義雄

〈俳句物語〉 岡田耕治

一歳へ裸の乳に文字を描く 宮崎義雄


妻)ねえ、この胸に絵を描いてくれない?

夫)え、どうして? サプライズ?

妻)ううん、今日で最後にしたくて……。もう、おっぱいを卒業させてあげたくて。

夫)なるほどね。何を描けばいい?

妻)顔かな。「へのへのもへじ」なら、この子も笑ってくれるかも。

夫)わかった。じゃあ、とびきり愉快な顔を描くよ。

妻)ひゃあ、筆が冷たい。

妻)じゃあ、ちょっと抱っこしてみるね。

夫)どう? びっくりしてるかな。

妻)だめみたい。この子にとっては一番安心できる場所なんだね。ほら、口の周りが真っ黒になっちゃった。

夫)ほんとだ。あーあ、鼻まで真っ黒。

妻)ねえ、明日はお酢を塗ってみようかな。

夫)そこまでしなくても……。

妻)でも、育休も終わるしね。一歳になるってことは、そういうことなんだよね。少し、寂しいけど。

夫)そうだね。今夜は、この真っ黒な顔のまま、たっぷり甘えるか。


一歳へ裸の乳に文字を描く 宮崎義雄