2026年4月5日日曜日

沈黙をふくらんでくる牡丹の芽 渡邉美保

沈黙をふくらんでくる牡丹の芽 渡邉美保
岡田耕治

 さよちゃんは、学校では全くしゃべらない。表情も、笑顔とか怒った顔とか、そういうのも見たことがない。ただ静かにそこにいるだけだ。中学校2年生のとき転校してきたけれど、別々のクラスだった。3年生で同じクラスになって、初めてその沈黙に気づいた。なぜ何も言わないのだろうと思うこともあるが、私もどちらかというと人間関係が苦手な方なので、さよちゃんのようになりたいと思うこともある。
 推しのアーティストのことで盛り上がったり、インスタでスイーツを自慢したり、休みにグッズを買いに出かけたりすることは苦手だ。さよちゃんの気持ちはわからないけれど、なんとなく、さよちゃんのことが気になっていた。
 2学期の初め、さよちゃんに、私の携帯番号をメモして「よかったらメッセージちょうだい」と渡した。するとその日の夜、さよちゃんから「教えてくれてありがとう」とメッセージが入った。そこからさよちゃんとは苦手なLINEではなく、iPhoneのメッセージでやりとりするようになった。
 学校にはケータイを持っていけず、昼間はやりとりができないけれど、学校から帰ってからさよちゃんとやりとりをするようになった。しばらくして、家では普通にしゃべっているけれど、学校に行くとどうしても話せなくなると書いてくれた。志望高校が一緒だったので、何とか合格するように、お互いに情報交換もした。
 公立高校の合格発表の日、朝10時からネット上で発表されるので、10時きっかりにアクセスしたけれど、なかなかつながらない。10時20分を廻ったところで、やっとつながって、合格という画面が表示された。母にメッセージを送ってから、さよちゃんはどうだろうとメッセージを送ると、さよちゃんも合格していた。
 入学式の日は、前日の雨に打って変わってきれいに晴れ、校庭の桜も満開だった。私とさよちゃんは、また同じクラスになった。なんだか、ほっとしたような気持ちになる。母にさよちゃんとツーショットの撮影をしてもらった。家に帰って写真を見直すと、さよちゃんがほんの少し笑っているように見えた。
 もしかしてと思って、ボイスメッセージで語りかけた。
「さよちゃん、今日の入学式は良かったね。これからはいつも携帯を持って、連絡を取り合うことができるね」
すると、すぐボイスメッセージが返ってきた。
「そうだね。ありがとう」
初めて聞いたさよちゃんの声は、ふくらみのある声だった。



香天集4月5日 渡邉美保、辻井こうめ、浅海紀代子、加地弘子ほか

香天集4月5日 岡田耕治 選

渡邉美保
沈黙をふくらんでくる牡丹の芽
干潮の舟が傾き木瓜の花
啓蟄の古本屋にて兄と会ふ
陵は大き鍵穴つばめ来る

辻井こうめ
鳥曇上演までの外つ語かな
ものだねの四天王寺の帰り道
握り飯春分の日の里山へ
実直な人やも知れむ木瓜の花

浅海紀代子
木の芽風戸口を開けて待つ便り
チューリップ泣いている間に天を突く
ふんばりの効かぬ日のあり雪柳
春の虹追憶はみな彩もたず

加地弘子
初暦開け閉めの時少し跳ね
枯菊の品よくありぬポリ袋
戦なき空を真っ直ぐ初燕
ピーピーと雀の枕鳴き出しぬ

川村定子
七段の男雛と女雛だけかざる
春てふに腰のカイロを張り足しぬ
美冷作山寺の庭くゆりなし
救急車寒の夜道を走り抜く

垣内孝雄
芽吹く木木犬を連れたる老夫婦
緑立つ近道の畔選びおり
花の昼付け紐とほす身八つ口
父母と祖父の墓石や里桜

岡田ヨシ子
雛の寿司シルバーカーを連ねおり
故郷の通学路から桜消ゆ
花見へと誘う手紙に夢と書く
夕桜天国からの迎えなく

秋吉正子
紅梅や細かい所目をつぶり
なつかしき人に会ったよ春の雪
注文はタッチパネルで浅蜊汁
探梅や団地の中のシルバーカー

吉丸房江
お日様に献ずるごとき花の彩
初誕生お口もぐもぐ桜餅
どこ行くも赤き絨毯落椿
温きまま釘煮届ける友の居て

西前照子
バス旅行米寿の祝い歌舞伎座へ
神棚にのせ理智院の年の豆
春が来る人生ゲームルーレット
つばめ待つ仕事場の窓明け放ち

大西孝子
青空に告げることあり初燕
我が家へと帰ってきたとつばくらめ
庭の中去年より増えふきのとう

川端大誠
ゆったりと背中を癒やす春の風

川端勇健
車窓から川端を減る桜たち

川端伸路
入学の兄楽になる通学路

【俳句物語】 岡田耕治
沈黙をふくらんでくる牡丹の芽 渡邉美保
 さよちゃんは、学校では全くしゃべらない。表情も、笑顔とか怒った顔とか、そういうのも見たことがない。ただ静かにそこにいるだけだ。中学校2年生のとき転校してきたけれど、別々のクラスだった。3年生で同じクラスになって、初めてその沈黙に気づいた。なぜ何も言わないのだろうと思うこともあるが、私もどちらかというと人間関係が苦手な方なので、さよちゃんのようになりたいと思うこともある。
 推しのアーティストのことで盛り上がったり、インスタでスイーツを自慢したり、休みにグッズを買いに出かけたりすることは苦手だ。さよちゃんの気持ちはわからないけれど、なんとなく、さよちゃんのことが気になっていた。
 2学期の初め、さよちゃんに、私の携帯番号をメモして「よかったらメッセージちょうだい」と渡した。するとその日の夜、さよちゃんから「教えてくれてありがとう」とメッセージが入った。そこからさよちゃんとは苦手なLINEではなく、iPhoneのメッセージでやりとりするようになった。
 学校にはケータイを持っていけず、昼間はやりとりができないけれど、学校から帰ってからさよちゃんとやりとりをするようになった。しばらくして、家では普通にしゃべっているけれど、学校に行くとどうしても話せなくなると書いてくれた。志望高校が一緒だったので、何とか合格するように、お互いに情報交換もした。
 公立高校の合格発表の日、朝10時からネット上で発表されるので、10時きっかりにアクセスしたけれど、なかなかつながらない。10時20分を廻ったところで、やっとつながって、合格という画面が表示された。母にメッセージを送ってから、さよちゃんはどうだろうとメッセージを送ると、さよちゃんも合格していた。
 入学式の日は、前日の雨に打って変わってきれいに晴れ、校庭の桜も満開だった。私とさよちゃんは、また同じクラスになった。なんだか、ほっとしたような気持ちになる。母にさよちゃんとツーショットの撮影をしてもらった。家に帰って写真を見直すと、さよちゃんがほんの少し笑っているように見えた。
 もしかしてと思って、ボイスメッセージで語りかけた。
「さよちゃん、今日の入学式は良かったね。これからはいつも携帯を持って、連絡を取り合うことができるね」
すると、すぐボイスメッセージが返ってきた。
「そうだね。ありがとう」
初めて聞いたさよちゃんの声は、ふくらみのある声だった。
*花筏迎え入れたる水泡かな 岡田耕治

2026年3月29日日曜日

俳句物語 永き日の悦ちゃんと居る身の昔 森谷一成

俳句物語 岡田耕治 

永き日の悦ちゃんと居る身の昔  森谷一成

 ぼくが住む町に近づくと、車窓の先に海が見えてくる。それまではスマホを見ているのだが、海の見えるあたりに差し掛かると、顔を上げて水平線を見つめるのが日課になっている。日が長くなるこの季節は、ちょうど退勤の時刻に、海に沈む夕焼が見える。
 今日、ぼくが見た夕日は、海一面を紅く染め上げ、中学時代に悦ちゃんと二人で見た、あの日の夕日と同じグラデーションだと感じた。
 悦ちゃんとは、交換日記をしていた。放課後、放送室兼放送部の部室にぼくが日記を置き、翌日また取りに行く。彼女は幼くして母親を亡くし、どこかのんびりした父親と二人暮らし。最近、その父親に再婚話が持ち上がっていると聞いた。ある時、開いた日記の2ページいっぱいに、ただぼくの名前だけが、びっしりと書き連ねてあって、驚いた。
 文化発表会が終わった日、たまたま一緒に帰ることになり、そのまま海を見に行った。そのときも、今日と同じように、海も空も茜色に染まる夕暮れだった。二人並んでベンチに座り、ただ沈んでいく夕日を見ているだけで、お互いのことは何も話さなかった。
 それぞれ別の高校に進学し、高校生になってから悦ちゃんと二度会った。二度目も海を見に行ったけれど、次に会う約束はしなかった。あれはもう30年以上も前のことになるだろうか。
 ふと、自分が降りる駅の一つ手前で、一人の女性が電車を降り、夕日のホームを歩いていくのが見えた。その一瞬の横顔と目差しに、「悦ちゃんではないか」と直感した。すぐに電車が発車してしまい、確かめる術はなかったが、あれはきっと悦ちゃんにちがいない。なぜなら、ぼくのてのひらに、中学生の頃に握り合った、あの小さな手の温もりが蘇ってきたから。



香天集3月29日 森谷一成、玉記玉、夏礼子、柏原玄、中嶋飛鳥ほか

香天集3月29日 岡田耕治 選

森谷一成
白面をしらべ始める杉の花
口笛吹く出来損いの初音にも
木の叉に隠れていたり原発忌
永き日の悦ちゃんと居る身の昔

玉記 玉
困憊の寄り添うている花筏
眠る昼眠らぬ夜を藤垂るる
放しては抓んでみたる寄居虫かな
柳絮飛ぶ気分で君も沈黙す

夏 礼子
恋猫の永久を見ている闇のあり
雛の目の数多めまいのしてきたる
春の鵙明日の日差しを啄みぬ
一日を生まれ変わらん春の雲

柏原 玄
束の間の美徳をおぼえ紫木蓮
つくづくし一枚を脱ぎ立ち向かう
蛇穴を出てたくらみの舌を出す
再始動ならぬ来し方初桜

中嶋飛鳥
生殖の春呼びよせる海の青
山笑う少し無理して肩を組み
新しき仮面をえらび卒業す
木瓜の花退院メール二度来たり

加地弘子 
印鑑はここ書類はここと追儺の夜
福も鬼も変わらずありて豆を喰う
大根や血抜きされたる鰤の粗
綿虫のぶつかる事のなき軽さ

釜田きよ子
チューリップと同じ顔して一年生
さくらさくら無心に眠る赤ん坊
敵味方どちらも大事山笑う
誰からも好かれ飽きられチューリップ

砂山恵子
もうちよつとが口癖の子よ木の芽摘む
ババ抜きを抜けたる子から石鹸玉
春の星あかり消したる能舞台
春愁牛乳瓶から出たのかも

嶋田 静
髪切ってまぶしき街や風光る
寂しさのなお山茶花の白が好き
親切をさずかっている春日向
海賊の幟はためき島の春

前藤宏子
和菓子買う春いっぱいの色を選り
山里の郵便局の雛かな
珍しく息子が取れり桜餅
鞦韆をひと振り揺らし少年去る

宮崎義雄
春の宵老いの命を酌み交わす
春闘や雑魚寝の列の豆灯り
底砂利をくの字に探り乗込鮒
岸壁を掻く音つづく貽貝取り

森本知美
遮断機の音のリズムや畑を打つ
畑打や笹根と力くらべしつ
戦争のニュース日毎に木瓜咲きぬ
予定表埋まる早さよ弥生尽

安田康子
さんざめく玻璃戸の向こうミモザの黄
ほこほこと追い上ぐ蕾シクラメン
春夕焼あすは良き事きっとある
風光る和太鼓ひびくカフェテラス

木南明子
寒あやめ残れる日々を思いやる
白梅の両手を上に挙げており
花辛夷今日の暮らしを恙なく
白椿装う人が玄関に

河野宗子
春日向手に持つコップ落としたる
雪柳燃え立つ白を知らぬ家
木瓜の花大きなトゲを出しており
松の芯今をきっぱり生きのびる

田中仁美
春立つと遠くなりゆくニューヨーク
毛氈の春日をすすむ裾さばき
風光る着物ふたりの笑い声
チューリップ孫がこちらを向いてる

目 美規子
百円を拾う道端こぼれ梅
啓蟄や寝起きのめまいして来たる
五十年続くスナック春に閉ず
天に矢を放ちていたる白木蓮

金重こねみ
浮かびくる友の笑顔や朧の夜
媼ほど声弾みたる雛祭
啓蟄や鍬をひとまず置くことに
ドローンの爆撃つづく春の闇

松並美根子
ガラス戸の光まぶしむ春炬燵
店頭の色さまざまにチューリップ
春来る曾孫に会えし初参式
思い馳す山中渓の桜かな

北岡昌子
ホーホーと鶯のなく散歩中
春の霜地面にうつる犬の顔
姿見ず目白の声の聞こえたる
病院の庭の明るき桃の花

大里久代
春よ来い土の中より呼んでいる
太陽に照らされ光る春の芝
買物中お雛祭りの曲流れ
桃の花二人並んですましけり

〈俳句物語〉 耕治
永き日の悦ちゃんと居る身の昔  森谷一成
 ぼくが住む町に近づくと、車窓の先に海が見えてくる。それまではスマホを見ているのだが、海の見えるあたりに差し掛かると、顔を上げて水平線を見つめるのが日課になっている。日が長くなるこの季節は、ちょうど退勤の時刻に、海に沈む夕焼が見える。
 今日、ぼくが見た夕日は、海一面を紅く染め上げ、中学時代に悦ちゃんと二人で見た、あの日の夕日と同じグラデーションだと感じた。
 悦ちゃんとは、交換日記をしていた。放課後、放送室兼放送部の部室にぼくが日記を置き、翌日また取りに行く。彼女は幼くして母親を亡くし、どこかのんびりした父親と二人暮らし。最近、その父親に再婚話が持ち上がっていると聞いた。ある時、開いた日記の2ページいっぱいに、ただぼくの名前だけが、びっしりと書き連ねてあって、驚いた。
 文化発表会が終わった日、たまたま一緒に帰ることになり、そのまま海を見に行った。そのときも、今日と同じように、海も空も茜色に染まる夕暮れだった。二人並んでベンチに座り、ただ沈んでいく夕日を見ているだけで、お互いのことは何も話さなかった。
 それぞれ別の高校に進学し、高校生になってから悦ちゃんと二度会った。二度目も海を見に行ったけれど、次に会う約束はしなかった。あれはもう30年以上も前のことになるだろうか。
 ふと、自分が降りる駅の一つ手前で、一人の女性が電車を降り、夕日のホームを歩いていくのが見えた。その一瞬の横顔と目差しに、「悦ちゃんではないか」と直感した。すぐに電車が発車してしまい、確かめる術はなかったが、あれはきっと悦ちゃんにちがいない。なぜなら、ぼくのてのひらに、中学生の頃に握り合った、あの小さな手の温もりが蘇っているから。
*立ち止まるためすかんぽを咥えけり 岡田耕治

2026年3月22日日曜日

給食の伊予柑を分け下足箱 俎 石山

俳句物語(7)  岡田耕治

給食の伊予柑を分け下足箱   俎 石山
ポケットに八朔ひとつ帰りけり

 給食に伊予柑が出た。ボクは酸っぱいのが苦手で、蜜柑もほとんど食べない。伊予柑はみかんよりもはるかに酸っぱい。母は柑橘系が好きなのでよく買ってくるが、伊予柑は小さい頃に一口食べたきりだった。

 担任は、給食を残すことを許さないタイプなので、バレないようにそっとポケットにしまった。伊予柑の小ささがありがたかった。給食を食べながら、「ワタシ、伊予柑大好き」と言う女子がいた。母が柑橘類を好むことがボクには理解できないように、彼女が伊予柑を好きというのも、全く分からない。なぜあの中途半端な酸っぱさが良いのだろう。

 放課後、今日は部活動がないため、すぐに下校するよう放送があった。昨年から土曜日か日曜日のどちらかは必ず休み、平日も一日休むという学校の方針が出たので、水曜日は部活動のない日になった。

 下足場でその伊予柑好きの女子とばったり会った。ポケットにしまってあった伊予柑を取り出して、
「これ、食べる?」
「ありがとう。大好き」
「ボクも好きだけど、母が好きなんで持って帰るとこだった」
「じゃあ、これお返し」

彼女のリュックから出てきたのは、ボクのポケットに入りきらないほどの八朔だった。



風光る三年前の牛乳瓶  谷川すみれ

俳句物語(6)  岡田耕治

風光る三年前の牛乳瓶  谷川すみれ

 散歩の途中で水仙を見かけたので、切り取って牛乳瓶に挿した。この牛乳瓶は、2023年のコロナ禍の末期に、毎朝1本ずつ届けてくれていた牛乳屋さんが廃業することになったという知らせとともに入っていた瓶だ。店主が高齢の上、コロナ禍で大口の納入先からのご注文も減ってきたので、宅配のお客様には大変ご迷惑をおかけしますが、本日付で廃業させていただきますとあった。

 それからは、買い物に出かけたときにスーパーで紙パックの牛乳を買って、それを一週間で飲み切るという形で牛乳と親しんできた。だけど、紙パックより瓶の方が美味しかったように感じるし、直接飲むと口当たりも滑らかだ。今でも、銭湯に行くとコーヒー牛乳を瓶ごと飲んで、あの感触を懐かしんでいる。

 先日、その牛乳屋さんが、また宅配を始めるというチラシが入った。宅配の牛乳だけでなく、道路沿いの店舗を改装して、ソフトクリームも販売するという。電話で宅配を申し込むと、懐かしい店主の声で、「いや、娘が子育てが一段落したので、手伝ってくれることになりまして」と、嬉しそうな声が返って来た。

 翌日、牛乳を配達し、新しい牛乳箱を取り付けに来てくれたのは、四〇代らしい細身の女性だった。

「おはようございます。牛乳屋です」
「ご苦労さま。日曜日も配達してくれるんやね」
「はい毎日配達させていただきます。もし前の日の牛乳が残っていたら、お声をかけさせていただきますので、よろしくお願いします」



部室からカレーの匂い春の雪 三好つや子

俳句物語(5)  岡田耕治
 
部室からカレーの匂い春の雪 三好つや子

 部室棟は校舎から独立しており、運動場側には運動部、その裏手には文化部の部室が並んでいる。春の気配の中に雪が舞い始めたので、早めに練習を終えた陸上部につづいて、ソフトボール部のメンバーも道具を部室に引き上げてきた。

 そのとき、鼻腔をくすぐるカレーの匂いが漂ってきた。裏手、文化部の部室棟だ。どうやら演劇部の部室から匂っているらしい。ストッパーで半開きになったドアから覗くと、携帯用のガスコンロにかけた鍋で、キャプテンがカレーをゆっくり混ぜているところだった。

「どうしたの?」と聞くと、明日の卒業生を送る会で演じる劇がまだ中途半端なので、腹ごしらえをしてからまた練習を続けるつもりだと言う。
「外は雪が降ってきたよ」と声を掛けると、
「お世話になった3年生に、なんとか完成度の高い劇を見てほしいから」と彼女は答えた。
「それなら、私たちソフトボール部の2年生がカレーづくりを手伝うから、練習に戻って」と提案し、調理を担当することになった。

「だけど、カレーは作っても、ごはんはどうするの?」
「うん、ご飯を食べると眠くなるし、遅くなっても家で晩ご飯を用意してくれてるから。カレーは気合いを入れるためにルーだけ食べるわ」