2025年5月11日日曜日

香天集5月11日 三好つや子、加地弘子、春田真理子ほか

香天集5月11日 岡田耕治 選

三好つや子
疑問符を横に向ければ春の鍵
蚕豆の寝息がのこる莢の中
後戻りできぬ五体よ夕牡丹
旧仮名風を受け取り竹の秋

加地弘子
山桜四人の一人姿消す
大雨の予報を発ちぬ葱坊主
葱坊主針山に糸通しおく
白色でも黄色でもなく初蝶来

春田真理子
黒文字に水昇りたる菓子司
水仙が膨らんでくる希望かな
おとうとにえほんのはなし初節句
三人の白衣の写真燕来る

牧内登志雄
ゴム長の男の呷るラムネ玉
水底に夏の兆しやモネの池
風に木に水の音にも夏来る
海にわく白き雲より卯波立つ

楽沙千子
おかっぱの頃より愛す麦こがし
気掛りのことなく過ぎし新茶かな
食卓が贅沢となりライラック
一陣の雨に向日葵葉をひろぐ

〈選後随想〉 耕治
後戻りできぬ五体や夕牡丹 三好つや子
 「後戻りできぬ五体」は、身体全体、あるいは人生そのものが、もう引き返すことのできない地点に来ている、というつや子さんの実感を表しているようだ。「五体」という言葉が生々しく、加齢による身体の変化、あるいは病など、自身の身体は一刻一刻、人生の終わりに近づいている。牡丹も、夕べの牡丹だから、少しだけ花びらが閉じ気味になり、陰影のある表情を見せている。この夕牡丹の感触、この取り合わせが、人生の黄昏の中で見出す一瞬の輝きや、それを慈しむ心境が表現されている。

白色でも黄色でもなく初蝶来 加地弘子
 春先に見かける蝶としては、紋白蝶や黄蝶などが一般的だ。しかし、弘子さんはあえてその一般的な色を否定している。「白色でも黄色でもない」ということは、予想外の色、あるいはもっと珍しい色、あるいは光の加減や見る角度によって特定の色と言い切れないような、微妙な色の蝶が現れたことへの驚きや新鮮さを表現している。否定形を用いることで、読者は一体どんな色の蝶だったのだろうかと、想像を豊かにし、自分なりの色を作り出すことができる。生きるということは、まさにそのような営みなのかも知れない。
*岬町小島にて。

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