2025年8月31日日曜日

香天集8月31日 玉記玉、森谷一成、夏礼子、谷川すみれ他

香天集8月31日 岡田耕治 選

玉記 玉
涼新た石を濯げば石現れ
団栗へ展開したる雑記帳
実石榴の紅は油断をして育つ
秋深む打つ楽器から抱く楽器

森谷一成
籠耳の底にとどまり河鹿笛
空蝉の溶接したる車輪かな
炎帝の巴を巻いて居るところ
旱星今に今にの邦の今

夏 礼子
生温き水のこえ聞く原爆忌
還れかえれと八月の木霊かな
思い出のじれったくなる遠花火
跳ねたがる髪をなだめている晩夏

谷川すみれ
夕暮の暗号を抜け曼珠沙華
処暑の床三百年の黒光り
向日葵の顔の見えない高さかな
冷素麺まだ新しき死のありて

浅海紀代子
万縁へ杖一本の歩みかな
また元の老いの座れる昼寝覚
尺取に計り切れない空があり
いつまでも猫の寝そべる残暑かな

柏原 玄
ぶつぶつと託っていたり百日紅
一業を楽しんでいる牽牛花
かなかなの今日全うしたりけり
口裏を合わせていたる女郎花

神谷曜子
滝の水落ちてしばらく暴れおり
滝の音過去と未来を入れ雑ぜる
サイフォンで落とす主の夏の夜
八月はいやかおうでも父が来る

松並美根子
誰からも忘れられたる昼の蠅
舟の上花火の音の身にせまり
どこまでもくぐりゆくなり夏暖簾
夜空へとまぶしさ送り芒の穂

釜田きよ子
空蝉の飛んでもみたき青い空
熱帯夜十七文字ののたうちぬ
来世また蝉でありたく蝉の鳴く
大西日クレーンの首照らしおり

前塚かいち
たちまちに少年となるまくわうり
「地の塩になれ」との教え穴惑い
地球儀を回すチャップリン暑き秋
戦争のいつまで赤い百日紅

前藤宏子
風鈴に摂氏三十九度の風
煩悩をどこかにおけり白桔梗
生ぬるきメロンのように老いにけり
見物もバスも神輿も路同じ

宮崎義男
窓越しに気配の残る赤蜻蛉
白磁なる浅漬け茄子や朝御膳
植栽に飛び込む雀秋の声
朝焼や艫にしゃがめる漁夫の背

安田康子
晩夏光ところどころに風の道
夕立の言葉が雨に薄れけり
遠き日のよい子の町の大夕焼
小玉西瓜仏と分けて食べにけり

目 美規子
花木槿母が煎じてくれたこと
蜩やバイパス手術無事終わり
終戦日リュックサックの重くなり
承諾書書いて眼科へ向く残暑

森本知美
鳳仙花弾けこれより始まりぬ
玉響の命を伸ばす炎暑かな
苦瓜を食むやこの身の引き締まる
ふるさとに礎石の残る炎暑かな

金重こねみ
風鈴の仕方なく鳴ることのあり
供えたる水に氷を浮かべけり
くっきりとスマートフォンに汗の跡
青空や空蝉は背を向けしまま

木南明子
秋の雲囲む久保惣美術館
百日紅大木となる美術館
鬼やんまぶつかってきて目を廻す
油蝉八十年を繰り返す

〈選後随想〉 耕治
涼新た石を濯げば石現れ  玉
 「涼し」が夏の季語なのは、暑いからこそ涼に敏感になるからで、秋の季語としては「涼新た」になる。これまでの暑さが薄れ、清々しい空気が満ちてくるような感覚である。その涼しさの中で行われている具体的な動作が、「石を濯ぐ」という行為。水を使って土を洗い流すことで、石本来の色や質感が蘇ってくるようだ。そして、その結果「石現れ」と続くのが秀逸だ。これは、物理的に石の表面が露わになるだけでなく、作者の心の中にある「真実」や「本質」が明らかになる様子を象徴しているとも考えられる。新涼のなか、静かに石と向き合うことで、これまで見えなかったものがはっきりと見えてくる、そんな玉さんのひとときが描かれている一句だ。

籠耳の底にとどまり河鹿笛 一成
 「籠耳」は、籠に水を入れてもすぐに漏れてしまうように、話を聞いてもすぐに忘れてしまうこと。こう言われると、私も籠耳になってきたと感じる人が多いだろう。ところが、そんな籠耳であっても、その音が耳の奥深く、あるいは意識の底にまで静かに響き続けていることがある。音が聞こえるだけでなく、一成さんの心に深く留まっているもの。それが、下五の「河鹿笛」によって、その音の正体が明らかになる。清流に生息する河鹿の鳴き声は、笛を吹くように美しく澄んでいる。騒々しい日常から離れ、自然と一体となるような、穏やかで満ち足りた時の流れの中に微かな笛の音が聞こえてくる。

誰からも忘れられたる昼の蠅 美根子
 小林一茶の「やれ打つな蝿が手をすり足をする」という句に登場する蠅はとてもリアルだが、こんな蠅(ハエ)を見かけることは少なくなった。われわれの生活環境の衛生的改善が、蠅を見ることが少なくなった大きな理由だろう。普通は、うるさく、嫌われがちな存在の蠅を、美根子さんは一茶のように特別なまなざしで捉えている。誰も気に留めず、追われることもない、ただひたすらに存在しているだけの蠅。それは、夏休みの長い昼、ひとりぼっちで過ごす子どもの心境かもしれないし、ひとり暮らしをする老いの姿かもしれない。夏の熱気に満ちた昼間でありながら、その中にひっそりと存在する、静かな時間を描いているのだ。先日、泉佐野句会に伺い、皆さんのこのような味わい深い俳句と出会うことができた。
*キャラメルの間は無言地蔵盆 耕治

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