香天集11月30日 岡田耕治 選
森谷一成
身の内の風にあらがい秋の蝶
献杯や今年たわわの柿頒つ
識閾の表にとまり枯蟷螂
人語して老いが顔出すかいつぶり
玉記玉
凭れないで下さい邯鄲の鳴声に
泣くわけにいかず鬼灯鳴らしおり
十二月八日の海を詰めたガラス
見開きはルージュ十二月のan.an
谷川すみれ
天空に骨壺一つちゃんちゃんこ
情報の落ちついてくる薬喰
抜け殻となりにし家よ竜の玉
一人でも立ちつづけたり水仙花
夏 礼子
待ってると絵文字の届く昼ちちろ
屋敷まで来たるこの子よいのこずち
吾亦紅なかったことにしてしまう
亡き友へメール色なき風を打つ
辻井こうめ
黄帽の列に挟まれ鵙日和
天辺の蹴られてしまい天狗茸
麹屋の残る里なり栗ご飯
葉鶏頭国会中継付けしまま
木村博昭
立たぬかも知れぬ脚なり鰯雲
戦なきこの国の空鳥渡る
蟷螂の時の深まるままに居る
登校も下校もひとり木守柿
釜田きよ子
小春日の我に似てきし弟よ
することはあるが出来ない秋入日
痒き背を撫でて欲しきや花芒
秋空に飛ばしていたる白紙かな
柏原 玄
木の実降る分を刻める日なりけり
神渡し湖の水嵩低くあり
ネクタイの迷いを赤と決め小春
閑でなく忙でもなくて冬暖簾
古澤かおる
立冬の御寺根菜届きけり
物忘れの階段からの照葉かな
小春日和絆創膏の下に傷
根性を捨てて置きたる枯野かな
前藤宏子
母似なら余命長そう秋夕焼
木犀や歳時記開くままにして
菊人形武者の襟元まだ蕾
差し入れの蜜柑を囲む会話かな
神谷曜子
風の盆狐のお面二つ買う
病室に夕焼を満たし送信す
日本橋麒麟の羽に秋冷来
冬空へナビゲーションをセットする
楽沙千子
ひとときは少女に戻りくぬぎの実
寒波来る石炭岩へ波の声
擦り減りし辞書にカバーをつける冬
波頭せまって来たり冬の雲
松並美根子
秋風や堤に長く人の波
秋夕焼二色の浜を遠くして
芒原風の向くまま踊りだす
秋の海沖を静かに過ぎゆけり
宮崎義雄
立ち飲みの百円安き燗の酒
熱燗の湯気を宥めていたりけり
熱燗がジョッキに変わる同窓会
秋暁のスピードを上げトレーラー
砂山恵子
満面の宮司の笑顔七五三
初冬や言へぬ言葉をまた溜めて
眠たくて今日は半分海鼠かな
軽トラは農家のポルシェ冬田道
木南明子
傷つきし柿そのままに活けており
夕時雨読経の僧の髪の濃し
柿供え仏間明るくなりにけり
木犀の香りを連れし墓参り
河野宗子
草雲雀遠くから来る母の声
ゆずり葉が咲いて心をのぞかれる
娘に送る柿とみかんとレモン詰め
ワイファイをつなぐ作業の長き夜
田中仁美
冬の蝶せわしくなりて地に落ちる
母からの青いレモンが届きけり
いつまでも赤い色好き万年青の実
小籠包レンゲに乗せて息白し
安田康子
喜寿という若さに生きて茸汁
ぐうたらの一人一日の暮早し
暮早し寂寂として生駒山
老犬の抱かれて散歩冬隣
森本知美
マスカット友の心を飲み込みぬ
伐採に残る枝あり金木犀
裸木の蔭にわが影重ねおり
参観の物産展や銀杏の実
金重こねみ
返すとき俳句の本に柿添える
新米は大盛にして仏様
乗り越えし六十年の竹の春
人里の轍に沈み葛のつる
目 美規子
友逝きて心ぽっかり木守柿
落葉掃くことを初めの運動に
冬葵ドレスの遺影微笑みぬ
お茶処訪ね葛湯で憩いおり
小島 守
幾度も開く手帳の紅葉かな
秋入日大きな丸を貰いけり
自転車に油を噴いて冬に入る
鳶の糞白鮮やかに夕時雨
〈選後随想〉 耕治
識閾の表にとまり枯蟷螂 一成
「識閾(しきいき)」とは、心理学用語で「意識されるかどうかの境目」、つまり意識と無意識の境界線を指す。来月出版される久保純夫さんの句集名でもある。この句の凄みは、「抽象的な観念=識閾」と「具体的な物体=枯蟷螂」を直接結びつけたところにある。普通蟷螂は、枯枝や草にとまるが、一成さんはそれを「識閾の表」にとまらせた。 これにより、枯蟷螂は実際の風景の中にいると同時に、作者の意識と無意識の境界にいるという、不思議な映像として立ち上がる。この不思議さは、自分が自分であるという思いがいかに微妙なものであるかを物語っているような気がしてならない。
凭れないで下さい邯鄲の鳴き声に 玉
・邯鄲の声は「ルルルルリリリリ」と糸を引くように続くが、その形のない音に「凭れる」という動作を持ち込むことで、人間の重くるしい感じが返って浮き立ってくるようだ。美しい邯鄲の声ゆえに、聞き手が感傷に深く入り込み、その重さをあずけることを制止しているのかも知れない。もう一歩踏み込んで、邯鄲の立場からすると、「私の孤独は、あなたが寄りかかっていいほど頑丈ではないのよ」という、冷たさと精一杯さが同居したメッセージを発していることになる。邯鄲の孤立の内にまで響き入る、玉さんのこの「声」がいい。
*龍骨をはじめに濡らす青女かな 岡田耕治
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