牡丹も我も最後は一火炎 長谷川 櫂
「俳句」二月号。「死の種子」と題された50句から、長谷川さんが自らの死と向き合われていると感じました。「PET検査」という前書きの句もありますから、がん細胞の位置を特定する必要があったのでしょう。検査結果に基づき、医師から余命を宣告されたのかも知れません。ドイツの哲学者ハイデガーは、人間は死という有限性に気づいたときはじめて、時間というものに自覚的になり、人生がかけがえのないものとして迫ってくると、「根源的時間」という考えを示しました。50句を貫いているのは、「根源的時間」に他なりません。枯れてからからになった牡丹も、この私も、最後は一本の火炎として終わるという、この静謐な眼差しに、命の終わりを自覚し、だからこそこの一日を生き切ろうとする意志を感じます。今後作者が生み出す一句一句を注視したいと、切に思います。
*大阪教育大学柏原キャンパスにて。
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