大津留 直
夕方、泳いでいて、あれ、今日の水は暖かいなと思う。そこから、ああ、自分は、多くの人と自然のぬくもりによって生かされてきたのだ、という感慨がふと湧いてきたのだ。「ぬくもりを泳ぐ」という措辞を、私はそのように読んだ。詩というものは、常に、ある偶然的な出会いから、自分の一生について、ふと思わせられる、そこに生まれるのではないかと思う。大げさに言えば、生の奇跡に対する感謝が感じられる。おそらく、この「ぬくもり」は羊水のそれでもあるのだ。
十河 智
自然な感じたところを句にしてみると、案外微妙な、しかも厳密な季節の移ろいを切り取っていたりする。
水は温まりにくく冷めにくい。「ぬくもりを泳ぐ」というだけで、昼間は自然の暑い陽を照らされた水であること、気温が少し落ち着いた夕方であることが、みんな理解できるのだ。言葉の凄さに身が震える。真夏ではなく、まさに今頃、海ではそろそろ泳ぐなと言われる夏の終り。屋外のプールかもしれない。海かもしれない。遠くから来た客はもういない、地元の人たちのばらばらと来てはひと泳ぎする風景が見える。ふるさとの瀬戸内海でも、娘が一時住んでいた沖縄の海でも、夕方のぬくもりの中で泳ぐ地元の人がいた。ゆったりと楽しそうに泳ぎ込んでいた。
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