2025年7月27日日曜日

香天集7月27日 神谷曜子、谷川すみれ、前塚かいち他

香天集7月27日 岡田耕治 選

神谷曜子
満開のアカシア黄泉の匂いけり
矢車草心の蒼を深くする
手術せぬ治療もせぬと白木槿
ふる里の花野に置いて来た一冊

谷川すみれ
辞書を繰る指やわらかく秋立ちぬ
オムレツの大きさ同じ台風圏
次の手を考えている白い栗
地球儀に置き続けたる秋思かな

前塚かいち
アガパンサス咲いてこの世が曖昧に
猫の目が吾を追うなり若葉風
アンテナに絡むを任せ時計草
どくだみを残し空家の庭を掃く

安部いろん
女には大気のちから梅雨晴間
貝殻に海の傾く梅雨の月
蛍の火ひととき忘れたい記憶
落雷や闇の寡黙の中に生く

古澤かおる
白靴の待たされている箱の中
踝が浴衣の裾を急かしおり
主電源一旦切りて大昼寝
箱庭の造花を眺め不眠症

俎 石山
睦言の潜んでいたり片蔭り
備蓄米炭酸水で炊いてみる 
水茄子を齧りし酒の甘さかな
夕顔に病み伏す人の小さな手

岡田ヨシ子
盆近し急ぐ退院ままならず
腰骨の痛み通せり蝉しぐれ
朝曇り小さき虎が通りゆく
亡き夫の迎えを待ちぬ盆の月

〈選後随想〉 耕治
矢車草心の蒼を深くする 神谷曜子
 矢車草は、鮮やかな青や紫の花を咲かせ、どこか素朴でありながらも、その色彩は強く印象に残る。「蒼」という色は、どこまでも続く空や海の青のように、広がりと静寂を感じさせる一方で、物悲しさや憂いを表すことがある。「心の蒼」となると、単なる明るい感情ではなく、内省的な、あるいは少し切ない感情を想起させる。矢車草を見つめることで、作者の心の中にある「蒼」の感情が、より一層深まっていく。矢車草の佇まいそのものが、曜子さんの心の奥底に眠っていた感情を呼び覚ますのかも知れない。
*岬町小島にて。

2025年7月20日日曜日

香天集7月20日 三好広一郎、柴田亨、木村博昭、砂山恵子ほか

香天集7月20日 岡田耕治 選

三好広一郎
鉛筆は立ったり寝たり梅雨晴間
炎昼や空気のような塩で生き
八月や紙人形のような人
蛇と蝉濡れた透明な時間

柴田亨
駆け抜ける蜥蜴に虹の切れっぱし
ほっとしてやがて淋しき祖父の百合
ベトナムの友の折り鶴星祭り
この林老鶯のあり統べており

木村博昭
ふところに身代り地蔵青嵐
潰されしペットボトルの旱梅雨
大阪の地下街をゆく金魚玉
大いなる女の尻や田水沸く

砂山恵子
路地胡瓜あれは若さの手前の香
トマト赤し厨の空気動き出す
空蝉にそつと触れるとまだぬくし
ひようひようと倒れし親父水鉄砲

平木桂子
短夜や夢の意味問ふ夢の中
病院の夜に戻れる蝉の声
父母を練り込んでゆくはつたい粉
十薬やクルスを捧ぐ殉教者

上田真美
ビヤホール今宵は空に溶けましょう
七夕のいまだ逢瀬を願いけり
貝拾い旅の話を聞いてみる
色が好きアガパンサスの響きも好き

楽沙千子
アイロンの余熱を使い梅雨湿り
灯火に狂う火蛾来ぬサッシ窓
性格を出して親しくなる端居
日焼子のかけ出して行くチャイムかな

〈選後随想〉 耕治
鉛筆は立ったり寝たり梅雨晴間 広一郎
 先日の大阪句会で話題になった句。久保さんが「鉛筆は作者だろう」と鑑賞した。私は、書き物するときに鉛筆を立てたり、でも疲れたら寝かしたりという風な、鉛筆そのものが立ったり寝たりしているという、まずその情景を思い浮かべた。そこから更に、その鉛筆が作者だというふうに踏み込んでいくと、梅雨にたまたま訪れた晴れの日、立ったり寝したりしている姿、悶々としながら書き物をしている、情景が浮かんでくる。そのことが皆さんの共感を呼んだにちがいない。広一郎さんが、立ったり寝たりしながら「香天」連載の俳句ショートショートを書いている姿を想像すると、たのしい。
*東京都千代田区にて。

2025年7月13日日曜日

香天集7月13日 三好つや子、浅海紀代子、平木桂子ほか

香天集7月13日 岡田耕治 選

三好つや子
ひらがなの農業日誌麦嵐
天の川先割れスプーン流れつく
生意気が色とりどりの夏サラダ
人柄のぷりっと光る茄子かな

浅海紀代子
新緑をくぐり路地まで戻りけり
この路地は一方通行夏つばめ
リハビリのドアの一歩に緑さす
軒簾猫と老女の住処かな

平木桂子
スプーンで攻めるも楽しかき氷
人生の帳尻合わす昼寝かな
前だけをただ前だけを蟻の列
紫陽花や色を失う前屈み

高野義大
湖に春天元に太陽神
桜見てきてアメリカが遠くになり
花明り夜に目覚めがちなる男
十一月草木と在り青の朝

春田真理子
青田から突き立つ鉄塔連なれリ
踏ん張ってつかまり立ちぬ額の花
大空を目指し進めぬ蜻蛉かな
誰しにも系譜のありて瓜の花

宮下揺子
辻桃子逝く潔き花氷
夏始化粧男子の肌の色
かたばみの花薄れゆく父の声
来し方を褒めて帰りし西日中

佐藤諒子
手鏡にやまんばぬっと山笑う
メンバーはいつでも同じ新茶汲む
青梅雨や男子学生髪束ね
軽軽としっぽのゆらぎ青蜥蜴

牧内登志雄
青時雨水琴窟はモデラート
故郷は捨ててきたのに瓜の花
二三列乱れていたる青田かな
朝採のちくりちくりと青胡瓜

松田和子
花蘇鉄潮の岬の過去のこと
ちりりんと風鈴の寺めぐり逢い
青葡萄試飲夢中のワイナリー
汗をかく乳房に残る塩の花

〈選後随想〉 耕治
ひらがなの農業日誌麦嵐 三好つや子
 岩手県へ行った時に、ここでは米ができにくいので蕎麦だと、農業に携わる人がおっしゃってたことが耳に残っている。農業に関わる人が、ひらがなで日誌を書いているという。おそらく卒業以来農業に携わってきた人が、ひらがなで日々の作業のことを書いている。そこに麦嵐が吹いてきたという。非常に広大で力強い麦嵐と、農業を支えている営みの証である日誌と、この取り合わせが、厳しい自然に向き合うことの誠実さを表現していて、つや子さんならではの一句となっている。

新緑をくぐり路地まで戻りけり 浅海紀代子
 先日の大阪句会で浅海さんのこの句が話題になった。久保さんが、路地というのは「異界」とつながるところだとおっしゃった。中上健次だと、路地というのは、自分のふるさと新宮のことを表現している。そんな「路地=ふるさと=異界」まで戻ってきた。で、その前にどうしたかというと、新緑をくぐってきたと。この新緑をくぐるみずみずしい感覚と、いつもの自分のベースである路地へ戻ってくるということが照らし合っている。新緑の生命力に満ちた世界から慣れ親しんだ静かな日常の世界へ戻り、改めて自分の居場所に帰り着いた時の、心の落ち着きを描いている。
*岬町小島にて。

2025年7月6日日曜日

香天集7月6日 中嶋飛鳥、渡邊美保、森谷一成、佐藤静香ほか

香天集7月6日 岡田耕治 選

中嶋飛鳥
狛犬の樅の木落葉まみれなる
糸底のざらついている麦の秋
ラタトゥイユ寸胴鍋の夏たのもし
書を曝す風の畳を広くして

渡邉美保
梅雨旱山羊が囲いを頭突きする
せめぎ合ふテトラポッドや日雷
尻軽のハグロトンボについてゆく
竹皮を脱ぐ新しき老いわたくしに

森谷一成
列島をゆする若葉の大爆発
凌霄の花に囲まれ空家かな
冷房や誰が匿しおく公文書
体幹をねじり直さん六月尽

佐藤静香
スプーンに映る我が顔半夏雨
尻高く超える跳び箱梅雨明ける
絶筆となりし師の書や青嵐
水中の蛇の速さの孤独かな

浅海紀代子
落ちてから慕われている椿かな
つばめ舞う窓からの日日病衣着て
尾を立てて迎えて呉れる猫の子よ
春の闇紛れ込みたい時のあり

平木桂子
死ぬ時も道化てみたし桜桃忌
梅雨闇やバケットリスト書いてみる
梅雨晴や洗濯ばさみあとひとつ
六月のビシソワーズに朝来たる

高野義大
雷のごとく枝張る冬虚空
昼の雲光抱擁し対峙する
松の内手さぐりで来て力尽き
しんしんと雪降る夜の未練かな

長谷川洋子
「あ・り・が・と・う」病の床の汗みずく
白き布掛けられし胸夏の菊
短夜の写真に話しかけており
ガラス器に河原撫子供えけり

橋本喜美子
しまなみの橋渡る風夏来る
春蝉の声揃ひたる千光寺
名物のレモンソーダの列に入る
白藤の香の誘ひくる房のあり

半田澄夫
わが思い湯煙に乗り春の空
春風を受けアパートの大漁旗
大欠伸桜吹雪を飲み込みぬ
花びらを受けたこ焼きを待つ背中

吉丸房江
米粒に父母ありて先祖あり
水田や九十年を変わりなく
夏の妊婦多くの人に期待され
荷を作る畑の温もり確かめて

上原晃子
ふぞろいのバケツを満たす穀雨かな
新緑や子どもが好きな槇尾山
雨のあと新緑を行く今朝の道
熊蜂の多く飛び合う祭かな

北橋世喜子
バラの葉を巻いて憩えり青毛虫
加茂川を走る二人の額に汗
刻刻と湧き出してくるおおてまり
呼ぶ声に目覚めていたり春の夢

中島孝子
筍ごはん湯気と香りを混ぜ合わせ
朴散華一枚拾い母偲ぶ
蓬摘む籠の重さよ畦日向
故郷の言葉静かに干蕨

石田敦子
触れてみる花やわらかく白牡丹
ネモフィラの側で見ている瑠璃色よ
葉桜や風吹き荒ぶ日となりし
独りには五個の草餅多すぎる

東淑子
花菖蒲我から先に見に行かん
蜆汁青を浮かべて一息に
猫の妻特に今夜は狂おしく
群れをなすおたまじゃくしの夜となる

〈選後随想〉 耕治
書を曝す風の畳を広くして 中嶋飛鳥
 この句は、先日の句会に出されたとき、「書を曝す仏間所を狭くして」という形だった。入選にいただいたので、沢山の本の存在を感じると選評した記憶がある。香天集の投句でこの形になっているのを見て、飛鳥さんが自分の俳句を何度も推敲している努力が感じられた。「風の畳を広くして」という表現は、原句をとどめないほどこの句の情景を際立たせている。事実としての「仏間」ではなく、「風の畳」とすることで、書物を広げて風に当てるために、畳の上に多くの書物が並べられている様子が目に浮かぶ。風が書物をめくり、その周りを吹き抜けることで、畳の間がより広く感じられる視覚効果があり。風がその場に生命を与え、空間を「広く」感じさせている。書物が並べられた畳の上は、知識や歴史、物語が詰まった空間だ。それらが風に当たることで、まるで書物から知識が放出され、精神的な広がりを感じさせるようでもある。書物と向き合うことで、飛鳥さんの心もまた、広がりと落ち着きを得ているにちがいない。

梅雨旱山羊が囲いを頭突きする 渡邊美保
 この句は、句会で木村博昭さんが、「この山羊の気持ちがわかります」とおっしゃったとき、会場に共感の笑いが起こった。現在の私たちは、何かわからないものに囲まれていて、そして頭突きでもしたくなるような、鬱陶しい情況に置かれている。あちらこちらで戦争が始まって、こんな世の中に一気になるものかと思うことが度々ある。そんなこの世で、山羊が囲いを頭突きするというのは、まさに自分が何がこの世の中に対するNoをぶつけているような感じだ。旱梅雨の、蒸し暑いし乾燥している、そういう鬱陶しさ、そういう時代への苛立ちを感じさせてくれる美保さんの書き方がいい。
*大阪教育大学天王寺キャンパスにて。