2025年4月27日日曜日

香天集4月27日 夏礼子、前藤宏子、安部いろん、中嶋飛鳥ほか

香天集4月27日 岡田耕治選

夏礼子
団員を集めていたりつくしんぼ
家路なお桜月夜の酔いであり
散り際を確かめている椿かな
木蓮の濃くなる白の懸念かな

前藤宏子
花明り昼銭湯の湯気少し
胃カメラの検査の後を蕨餅
春の川一水流れつつ光る
亀の子よ親に続いて頭を擡げ

安部いろん
春眠の睡魔が連れてくる何か
果てしなき空へ漕ぎ出し半仙戲
飛花たちが幾多の我とすれ違う
春列車席倒してもいいですか

中嶋飛鳥
啓蟄の事ある度に電子辞書
西行忌鏡の顔を手で拭う    
山笑う声高くする後日談
蝶々へ火宅の窓を開け放つ

柏原玄
万感を言葉に託しつくづくし
別嬪と言うて欲しいと紫木蓮
包丁を布巾になだめ黒めばる
片言を楽しみいたる葱坊主

宮崎義雄
灰汁少し残る菜花の辛子味噌
黒文字の揺れる旗棹桜餅
カラオケへ逸る心を花の下
送信の写真祝いのフリージア

森本知美
五羽の鳶水平に舞う花岬
こでまりの花や明るき部屋となる
百千鳥大塔の裏人気なく
花まつり甘茶の墨に願い込め

松並美根子
地蔵尊無二無三なり山桜
大切な一刻一日花水木
産土やライトアップに映える藤
春の海水平線を遠くして

丸岡裕子
午後からの韓国ドラマ春炬燵
山桜ゆっくり迫る雨催い
花桐や古典の浪漫香りくる
薔薇の中愛犬撮すスマートフォン

目美規子
山笑う景色展ける保護メガネ
マイクロムーン足速に過ぐ春コート
吊り革の揺れにまかせる春帽子
いぬふぐり手作りパンはチーズ味

木南明子
仏の座思いもよらぬ事ありぬ
ムスカリの野草となりて棲みつきぬ
天候の定まり蕨飯を炊く
留守番の夫に優しい大手鞠

安田康子
あっけなき別れとなりて鳥雲に
二度と来ぬ今日という日や四月馬鹿
春陰やただならぬ世の脈々と
桜散る晴れのち曇りのちの雨

金重こねみ
幼子の春の万博目はクルクル
しなやかに重なりてあるフリージア
今はまだ忘れ得ぬ人春の星
大惨事祈ることだけ菜種梅雨

〈選後随想〉 耕治
散り際を確かめている椿かな 礼子
 まず、「散り際」という言葉に惹きつけられる。椿は、自分の散りゆくその最後の瞬間を、じっと見つめ、確かめているようだ。その様子には、ある種の覚悟が感じられる。「確かめている」という措辞は、単なる花の散り際ではなく、何かを受け入れていくような、内面的な働きを感じさせる。六林男師は、俳句は直前で書くか、最中を書くか、直後を書くかの3つのうちの1つを選ぶよう指導された。礼子さんのこの句は、直前で書くことの好例だ。鮮烈な印象を残す花だからこそ、これから散ろうとしている椿に宿る力強さが、私たちの心に深く刻まれる。

花明り昼銭湯の湯気少し 宏子
 「花明り」という春の柔らかな光と、「昼銭湯」という日常の温かさが、湯気の立ち上る様子とともに、どこか懐かしい情景を描き出している。桜が咲き、周囲をほんのりと明るく照らす、そんな優しい光景に、「昼銭湯」という取り合わせが面白い。一般的に銭湯は夕方から夜にかけて賑わうが、昼間の銭湯には、また違った静けさや、日常の生活感が漂っている。宏子さんは、それを「湯気少し」というたったひと言で表現することができた。このひと言は、その場の温度や湿度、そして何よりも、そこに流れる穏やかな時間を伝えてくれる。

飛花たちが幾多の我とすれ違う いろん
 「飛花(ひか)」という言葉は、単に「散る花」と言うよりも動きがあり、風に舞い散る桜の花びらの様子に輝きを与えている。複数の飛花が、「幾多の我とすれ違う」ということは、実際は一人の自分を花びらが次次と過ぎていく光景だろう。しかし、いろんさんは、花びらが、まるで無数の自分自身と出会い、通り過ぎていくようだと捉え直した。こう表現することによって、花びらを時間や記憶の断片、あるいは過ぎ去っていった様々な感情や経験のメタファーと捉えることができるだろう。散っていく花びらは、過ぎ去った時間や失われたものを象徴し、「幾多の我」は、その時々の自分の心の状態や経験を表しているのだと。
岬町みさき公園にて。

2025年4月20日日曜日

香天集4月20日 湯屋ゆうや、三好広一郎、宮下揺子、柴田亨ほか

香天集4月20日 岡田耕治 選

湯屋ゆうや
花冷えのコントラバスを抱え来る
朽ちるのは洗濯ばさみ春深し
バランスを取るのに疲れ葱坊主
春の雨先生なんで立ってるの

三好広一郎
人間を着がえる時間青葉風
チューリップくちびるのこる紙コップ
亀鳴くやあたり障りのない質問
虹色の血管光る石鹸玉

宮下揺子
顔ヨガの顔を向け合う木の芽晴
すべりひゆ摘む死ぬまでの借地権
北窓を開け卒婚を言い渡す
春風や針孔ほどの猜疑心

柴田亨
湧水の戯れせんと生まれおり
水鳥のふわりとおおう桜かな
保田與重郎義仲寺に春暗し
金管のタッチのやさし春惜しむ

木村博昭
身の老を忘れていたる桜かな
花の屑玉砕という言の葉よ
野遊びのその先にある地雷かな
糸遊に軌道の曲がり広島市

釜田きよ子
花むしろ互いの弱み広げ合う
葉桜の力を借りて晩年を
ゆっくりと水を楽しむ花筏
息詰めていても落花のしきりなる

古澤かおる
弁当のパンはピンクに花巡り
日永人孔雀に会いにバスに乗る
晒しおく独活に少しのピンクかな
みぞおちに溜まりやすきは春うれい 

神谷曜子
ミモザミモザ喋り過ぎてはいけなよ
春の雪しきり脳裏にもしきり
やれるだけやると言う兄蓮華草
リラの花伝言として置かれけり

上田真美
春炬燵甘く匂える老母かな
理不尽を胸いっぱいに亀鳴けり
五分咲の桜最も好きと言う
あの人に手渡したくて桜摘む

平木桂子
口きかぬままに食べ合う桜餅
花吹雪煩悩ひとつ消えまほし
あの人と程よき距離を木瓜の花
来ぬ人をいつまで待つのチューリップ

俎石山
花杏愛でし背丈の時わずか
黄砂あり内地に向かう声のして
蝸牛ベランダに死が縮みたる
双極性障害の行く木の芽時

嶋田静
紫木蓮一途なほどに空仰ぐ
他の鉢にそっと育ちぬ桜草
入学の写真よ少しぽっちゃりと
尾頭の欠けてしまいし目刺かな

楽沙千子
山鳥の水面を急ぎ朝桜
黒ずみて池に迫り出す老桜
友だちと話の弾む蓬餅
目と耳にライブを浴びる薄暑かな

橋本喜美子
雛飾りはじめに愛でる男の子
櫻鯛一本釣りの響めける
鳥の羽春日を抱き動かざる
梅林は蕾だけなり人溢る

半田澄夫
冬籠りシーラカンスに問いかける
老梅や紆余曲折の先に咲く
目を病みし友の返信鳥雲に
何ごとも一語で済まし梅真白

北橋世喜子
西を向き身を寄せ合いぬ寒雀
春雨の電線滴ルミナリエ
種袋採集月日膨れおり
記念日の乾杯をして雛祭

中島孝子
蕗の薹友に香りを瓶詰めす
天満橋映す大川春浅し
古雛父母のこと箱の中
今も切る母の籾床独活の味

上原晃子
一木を選んでゐたり目白五羽
人参のよく育ちいるバーベキュー
一つまみ米粒を入れ大根焚く
仏の座畑の畝をそのままに

石田敦子
寒戻る日本列島荒れはじむ
八朔柑ヘルパーさんが皮を剥き
啓蟄や叔父の訃報の届きたる
銀行の跡地を均し春時雨

東淑子
笹鳴や日射しを受ける膝の上
春霞高梁川をすべりゆく
猫の子の日向の庭となりにけり
心地よい匂いをのせて春の風

〈選後随想〉 耕治
花冷えのコントラバスを抱え来る ゆうや
 「花冷え」のとき、明るいけれどもまだ冷えているような、そういう微妙なときにコントラバスを持ってくるという。花盛りのステージにコントラバスを持ち込むのではなく、花冷えの練習場にコントラバスを抱えてくるような感じ。少し孤独にも見えるが、同時にこれから演奏しようという意欲も感じる。コントラバスというのは低音部を受け持つので、高音部の主旋律ではなくて、どちらかというと曲の下敷きになるような、そういう部分を受け持つ。そんな人の優しさとか孤独さとか、そんなことを両方感じさせてくれる一句だ。

チューリップくちびるのこる紙コップ 広一郎
 紙コップが目の前にあって、周りにチューリップが咲いてると取るのが一般的だろう。けれど、チューリップを見ていて、紙コップはそこにないけれど、そのチューリップに唇の跡が残っているような紙コップを想起したというふうに読むことも可能だ。どちらにしても、この「くちびるのこる」という表現が、とても優れている。口紅残ると書いたらわかりやすいけど、それだと、紙コップに口紅が残っていて、周りにチューリップが咲いてるという感じしかない。「くちびるのこる」は、直接的な描写ではないので、読者にいろいろな想像を呼び起こし、個人的な記憶や感情と結びつきやすい。紙コップというのが、とてもいい塩梅に置かれている。

北窓を開け卒婚を言い渡す 揺子
 思わず「卒婚」を辞書で引いた。手持ちの辞書の中では「大辞林4.0」に、「婚姻を解消せず緩やかな関係を保ちながら、それぞれが独立した生活を送ること」とある。あたたかくなって、北窓を開くと同時に「私たちも、そろそろ卒婚ということにしましょう」と提案したのだ。それぞれが、自分の時間を大切にする暮らしは、「緩やかな関係」の上にこそ築かれてゆくだろう。
*岬町小島にて。

2025年4月13日日曜日

香天集4月13日 三好つや子、宮下揺子、春田真理子、砂山恵子ほか

香天集4月13日 岡田耕治 選

三好つや子
蝶の昼消防服の立眠り
体幹に菜の花電池一つ欲し
遠近の記憶ちらばり苜蓿
糸遊やこけしの笑みに似ていたる

宮下揺子
春の雪薬師如来の手のひらに
花ミモザ道なりに行く美術館
始まりしアースアワーの闇仄か
春寒や布の鞄に取りかえる

春田真理子
揃ひたる頭寄せ合ひ蜆汁
前向きも後ろ向きにも木の芽雨
宴席の誇る椿にある虚空
遇ふために花の濃くなる忌日かな

砂山恵子
春セーター腕を通すと弾む肌
春光や一周遅れのランナーに
菜の花や帰ろうとせぬ犬を連れ
病室の土筆入れたる紙コップ

牧内登志雄
不器用な男の墓の初ざくら
春耕やナナハンで来るどら息子
春雨や谷中の坂に夢二の背
初蝶や十万億の彼方から

嶋田静
朧月両手を開き受けており
春浅し新しき絵馬ゆれてあり
水音を聴いてふくらむ猫柳
球春や新監督を頼みとす

川村定子
初稽古足袋の白きが板を踏む
ローカル線テールランプが雪を染め
一刷の紅雲残り冬の暮
大枯野海風の音連れてくる

秋吉正子
春風や塗り替えられし滑り台
図書館に入る前に見えつくしんぼ
春の暮行方知れずの五円玉
風光る百歳が弾くスタンウェイ

川端大誠
ゆらゆらと船たちが行く春の海

川端勇健
ガリガリの上に雪降る春スキー

川端伸路
一年生入学式が待っている

〈選後随想〉 耕治
蝶の昼消防服の立眠り つや子
 消防署では、消防服(防火服)はすぐ取り出せるようにぶら下がっている。その消防服が立ち眠っているように感じたと読めるし、最近山火事があちこちで起こっているので、夜を徹して消火活動に当たっている隊員が立ったまま眠っている姿も思い起こさせる。「蝶の昼」という、蝶が飛んでくるようなあたたかい昼間だけれども、山火事を消すための消防服が立ち眠っている、あるいは、立ち眠るように火事に備えている。「蝶の昼」と一見不釣り合いに見える「消防服の立眠り」という光景を取り合わすことによって、日常の中に潜む非日常や、平和の陰にある人々の努力を深い眼差で描き出している。

始まりしアース・アワーの闇仄か 揺子
 アース・アワーは、世界自然保護基金による国際的なキャンペーンであり、3月の最終土曜日に1時間(20:30〜21:30)電気を使わないイベントである。アース・アワーに合わせて電気を消すと、立ち上がった闇の中に仄かに光りが残っているように感じたのである。この「闇仄か」という表現によって、単なる消灯以上の、何か静かで内省的な時間が始まる予感がする。闇の中に残る微かな光には、忘れかけていた「希望」が宿っているのかも知れない。
*大阪教育大学天王寺キャンパスにて。

2025年4月6日日曜日

香天集4月6日 渡邉美保、辻井こうめ、佐藤静香、浅海紀代子ほか

香天集4月6日 岡田耕治 選

渡邉美保
ジャムを煮る匂ひの中の彼岸かな
湯通しのめかぶのみどり刻みけり
昏睡を覚めた雨から春の沼
甘茶仏の後ろへ回る女の子

辻井こうめ
蜂蜜の湯煎してをりげんげそう
傷つけぬ言葉の迷路雪柳
霾や罅呼ぶ程の嚔せり
褐色となりし文集つくしんぼ

佐藤静香
春昼や病床の閑楽しみぬ
凍返る真夜の透析ブザー音
花うぐい泡ひとつ吐き失恋す
朝の白湯胃も肋骨もあたたかし

浅海紀代子
歩まねば石になるなりクロッカス
春の雪猫の静かな死に会えり
リハビリの野面を歩くすみれ草
足音の帰らぬままに春時雨

前塚かいち
改札を出れば誰もが桜かな
コロナ後も一人歩きの山桜
この街のこの丘が好き燕来る
声かけて走る少女や猫柳

半田澄夫
鴨三羽八の字切って前進す
寒椿散りて思いを敷き詰める
炬燵よりガザの不条理考える
老木の枝より吹雪散らしおり

中島孝子
雪中花活けてその香の強さ知る
盛り上がり列なす畝の春の土
田楽のレシピを開き味噌選ぶ
蕗の薹土をもたげてぽこっと出

北橋世喜子
冬日和刻む秒針小豆煮る
病院の時計気になる時雨かな
初袷唸る浪花の大舞台
受験期の真顔の中のニキビかな

橋本貴美子
雪晴や一羽の鳶が弧を描く
満天のみな青くなる冬銀河
ガラス窓風花だつたかも知れず
半分の大根炊いて満足す

上原晃子
寒月やたこ焼き店の煌煌と
教会の前に一輪冬薔薇
薄氷の飼育水槽動きあり
雪しまき急に現れ立ちすくむ

石田敦子
年の豆鬼の闇へと放り投げ
突然にエアコン壊れ寒に入る
おばあちゃんの命日となり建国日
春嵐その後すぐに日の差して

東淑子
いかにしてしびれを溶かす寒の雨
水仙や五十年目の花もたげ
さまざまな紅色をして梅の花
ふきのとう天ぷらにしてくれと言う

〈選後随想〉 耕治
ジャムを煮る匂いの中の彼岸かな 渡邉美保
 ジャムを煮るあたたかい匂いが、キッチンに立ち込めていて、そこに彼岸がやってきた。彼岸という言葉は、読者にそれぞれの人生や死について考えさせるが、そこにジャムを煮る匂いという、生者の側の日常が取り合わされている。「匂ひの中の」という表現が秀逸で、その匂いの中に「彼岸」という、目には見えないけれど確かに存在する精神性が、静かに佇んでいる。美保さんの、与えられた生をつないでいこう、大切にしていこうという思いが感じられる一句である。

蜂蜜の湯煎してをりげんげそう こうめ
 蜂蜜を湯煎して、溶かしていった時に、パッと蓮華草がひらめいた、あるいは、これは蓮華を吸った蜜蜂の蜜だと感じた。こうめさんの目の前にあるのは蜂蜜だけれども、そこに蓮華草のイメージなり、香りなりがしてきたという表現がいい。「湯煎してをり」と切れを意識していて、この切れがよく働いている。

花うぐい泡ひとつ吐き失恋す 佐藤静香
 「花うぐい」は、コイ科の淡水魚だが、繁殖期に朱色の条線を持つ婚姻色に変化する。つまり恋の色をしたうぐいが泡をひとつ吐いて、実は失恋したという。静香さんの、持ち上げておいてはっと落とす、この書き方が面白い。大阪句会で、久保さんは後から見たら失恋もいい感じだと鑑賞された。なるほど、そう思わせてくれる明るさがこの作品にはある。
*大阪教育大学柏原キャンパスにて。