2025年12月28日日曜日

香天集12月28日 玉記玉、加地弘子、辻井こうめ、砂山恵子ほか

香天集12月28日 岡田耕治 選

玉記玉
連れ歩く旅の途中の朱欒かな
私のぷつりと鳴りぬ氷面鏡
水音を出自としたる石蕗の花
一輪の埋火となる出家かな

加地弘子 
大根煮る幻視の話聴いており
短日や片脚立ちは十五秒
手を繋ぎ散歩にも行く帰り花
もっと早く会いたかったと石蕗の花

辻井こうめ
しづかなる箒の音や龍の玉
木守柿鳥語のリレーヂヂヂヂと
双手にて銀杏落葉を放つなり
家人来る時雨の宿りしておれば

砂山恵子
軽四輪トラック留まり冬田道
冬紅葉今日一日の一万歩
薄情や熊出る村に移り来て
打ち抜きの水音変わらぬ街に冬

神谷曜子
黄コスモス高麗町を埋めつくす
泡立草どっちもどっちと風が言う
沈黙の鎧のいらず薄原
介護さる今日華やかな冬帽子

北橋世喜子
声かけるその度睨む蟷螂よ
瑕の柿初物ですと仏壇に
秋雨や一つ傘より声弾む
種からの発芽群がる水菜かな

中島孝子
鳥たちが塒としたり金木犀
秋時雨母が綴りし日記読む
そぞろ寒時を忘れる古き文
珈琲の最後の雫冬に入る

橋本喜美子
青き空拳骨ほどの吊し柿
赤鬼の角の生えくる唐辛子
どの花も咲く向き同じ野菊かな
大津絵の迎ふる宿や松茸飯

垣内孝雄
去年今年皺多き手をしみじみと
実南天かはたれどきの母の家
レジスター前を色へる篝火花
愛猫の骨壺六つ霜の声

半田澄夫
ちちろ虫深まる闇をえぐり取る
秋霖やくろしお号のつき進む
路地裏の別世界なり酔芙蓉
秋の蚊に繋ぐ命をくれてやる

上原晃子
巻雲を割って白線伸びてゆく
大根蒔き終える寸前降り出しぬ
秋の空ぶらり神戸のゴッホ展
庭園を気球が眺む文化の日

石田敦子
車椅子散りし紅葉の重なりぬ
納戸より電気ストーブ出してもらふ
箪笥より一枚羽織りちちろ虫
放り置く本を繙く夜長かな

河野宗子
シュトーレン食べて今年をふり返る
初めてのカクテルを飲み雪女
渋柿を甘きに変えるワインかな
亡き友のまとわりつきて冬の蝶

はやし おうはく
能登の海夕日に融ける秋の青
斎場の煙のみ込む秋の空
神無月賽銭箱を置いてゆき
墓石に寄り添っている曼珠沙華

川合道子
「また来ますね」看護士が去る秋の昼
靴底をごろごろ鳴らし秋深し
空高し「生樹の御門」潜りけり
立冬の四万十川の石丸く

東 淑子
空晴れて敬老の日の皺数う
七五三春日大社の荒れ出しぬ
母思う金木犀の匂い立ち
鈴なりの柿を見つめて帰りけり

市太勝人
外に出た瞬間秋の更衣
自転車の秋晴にして汗匂う
冬嵐一瞬にして明と暗
温暖化ニュースの中を冬に入る

〈選後随想〉 耕治
連れ歩く旅の途中の朱欒かな 玉記玉
 先日の天王寺句会で久保純夫さんだけが特選に取った句。久保さんは次のように選評した。「この朱欒は途中でもらったのか、思いつきで土産に買ってしまって後悔しているのか、そんな感じがします。朱欒と言う大きな存在は、果物だけではなくて、手に入れたけれど邪魔になってるような自分の奥さんとか(笑)、付き合ってきた友達とか、そういう存在を思い浮かべることができて、とてもいいと思います」。
この選評を聞いていて、ああ「朱欒(ザボン)」という言葉から、いろいろなことを思い浮かべることができるのが、俳句力だなと思った。読むときも、詠むときも同じ。私も含め、この俳句を読んで、なぜ朱欒を連れ歩いているのかわからないとパスする感性の持ち主は、もっと柔軟に言葉に対するスタンスを取らねばと気付かせてくれる、そんな玉さんの一句だ。

もっと早く会いたかったと石蕗の花 加地弘子
 読んだ瞬間に、胸の奥が温かくなるような、それでいて少し切ない感情が伝わってくる。石蕗の花は、私が毎日散歩する海岸沿いに明るい黄色を点してくれる。特に今年は、日当たりの良い道端の花は刈られてしまったので、暗い崖から花を咲かせている。その様子が、弘子さんの「もっと早く会いたかった」という表現により、視覚的に象徴されているようでうれしい。「なんでもっと早くこの存在を知らなかったのだろう」と悔やむような、愛おしさが感じられる。だからこそ、今この瞬間に巡り合えたことへの感謝がにじみ出てくるのである。
*煤逃の真二つに折る将棋盤 岡田耕治

2025年12月21日日曜日

香天集12月21日 夏礼子、柏原玄、三好広一郎、中嶋飛鳥ほか

香天集12月21日 岡田耕治 選

夏 礼子
ポケットのいつ捨てやらん櫟の実
言い分は母にもありぬラ・フランス
谷底を走る鬼女なり冬紅葉
枯芒もう化かされているらしい

柏原 玄
山茶花の白をよろこぶ年となる
無為にして即ち有為や石蕗の花
梟の薄目に姿ととのえん
軽き世を重たく生きて根深汁

三好広一郎
柿を採る梯子勝手に使いけり
合鍵のような姉逝く冬苺
空港の凍星割れぬ窓硝子
遊ぶように空気の回る寒夜かな

中嶋飛鳥
嚔あと一気に弛む骨密度
腸を洗い上げたり冬の水
嬰の声茶の花垣の曲り角
休み休み着膨れて切る足の爪

木村博昭
雄を喰い蟷螂枯れてゆくばかり
スケッチに妻子の遺り開戦日
生きるとは生臭きもの牡蠣を剥く
この土へ吾が骨埋めよ山眠る

湯屋ゆうや
凩の中へ電話に出るために
末端はピンクであるよ冬の子は
丁寧な縫い目がありぬ聖夜劇
相槌をさがす看護師雪催

古澤かおる
何時からの夫の猫背冬コート
富有柿種ありますと売られけり
壺の肩膨らむほどに夜の冴ゆ
息白く深き会釈の姉妹かな

俎 石山
裏庭にいつ頃からか火鉢あり
木槿咲く赤い兵隊踏み荒らし
塩鮭が無敵となりし台所
ブロッコリ頭の女近付きぬ

前藤宏子
寒風や犬の目ふかき毛の中に
冬の月白く乾けるシャッター街
冬牡丹観客席の浅田真央
何もかも捨てて冬木となりにけり

宮下揺子
花野までついていこうと足踏みす
置き炬燵終活ファイル積まれある
学校は遠いところぞ冬の鵙
白馬老い蔦紅葉する神厩舎

安部いろん
鎌鼬巫女辞めた人討ちにくる
薄氷の割れ戦争の予感
着膨れてもう淋しいとは言えない
冬の空影なきものが往来す

安田康子
息白し目印は朱の大鳥居
冬の暮線香の灰立ちしまま
実家には寄らずに帰る年の暮
後の世を覗いてみたし竜の玉

宮崎義雄
年の瀬や客間に厚きカレンダー
味噌醤油付けぬ握りを榾に焼く
納豆売贔屓の家へ声を上げ
鏡餅古き時計を横に置き

松並美根子
産声の八十回目年の暮
秋寒や老いを身に知る報恩講
夕時雨水間鉄道駅古し
天と地をつないでいたる冬満月

木南明子
太陽の味いっぱいの柿を剥く
玄関へ無造作に置くかりんの実
老人の命を守る冬日向
地を歩く冬鳥早く飛びなさい

森本知美
冬紅葉人なき里の風の歌
枯れ尾花生垣を越え陽と遊ぶ
年の暮按摩器を捨て体操に
枯欅イルミネーション咲く通り

金重こねみ
オリオンや友はそちらへ行きました
リハビリは少しずつよと枇杷の花
電灯のチカチカチカと年の暮
大掃除昭和の歌が邪魔をする

目 美規子
点滴で青にえた腕十二月
一枚の枯葉舞い込むエレベーター
血圧に一喜一憂冬黄砂
冬野菜三日続きの夕餉かな

〈選後随想〉 耕治
ポケットのいつ捨てやらん櫟の実 夏 礼子
 コートや上着のポケットに手を入れた時、指先にコロリと触れた固い感触。それが櫟の実、つまりどんぐりであったという瞬間が鮮やかに描かれている。「いつ捨てやらん」という言葉には、「いつ捨てようか、いや、いつまでも持っていたいな」という揺らぎが感じられる。どんぐりの中でも、櫟の実は丸々と大きく、ポケットの中で転がすのにいい加減。その手ざわりが、捨てられずにいる理由を想像させる。捨てようと思えばいつでも捨てられる、けれど手がその感触を離さないという心の機微が、読者の記憶に同じような経験を呼び起こす。

山茶花の白をよろこぶ年となる 柏原 玄
 山茶花には赤やピンクもあるが、あえて白をよろこぶとした点に、作者の現在の心境が表れている。華やかな色彩よりも、混じりけのない、削ぎ落とされた潔さに価値を見出すようになった。その変化を、自分の精神的な変化として肯定的に捉えているようだ。若い頃には気づかなかった、年齢を重ねたからこそ得られた心の豊かさに対する自覚と感謝が読み取れる。もちろん、そういう歳になったという意味だけでなく、「今年一年を、白を喜ぶような心持ちで過ごしていこう」という、人生の次のステージへの宣言のようにも受け取れる。作者の、新しい年を迎えようとする、静かな願いが感じられる。
*生きている友を呼び出す夜の雪 岡田耕治

2025年12月14日日曜日

香天集12月14日 渡邉美保、三好つや子、柴田亨、平木桂ほか

香天集12月14日 岡田耕治 選

渡邉美保
末枯や一つの耳に日の当たり
鵙高音ガラスの蓋のくもるとき
鶲来る開け放たれし御輿蔵
実を零しては南天の剪られけり

三好つや子
菊枕人それぞれに遠野あり
玩具のような電車が通る柿のれん
石ころに腹を温める冬の蜂
やわらかな濁音となり夕時雨

柴田亨
薄紅の散りながら咲く山茶花よ
ノート持ち救世観音の冬日和
青北風や戦禍の街へ無双切り
冬来たる地平は赫く暮れなずむ

平木桂
干蒲団胎児に戻る手と足と
枯葉舞う戻らざる日を巻き戻し
三輪山の昭和百年憂国忌
ゴッホ展銀杏黄葉の輝けり

春田真理子
秋高しバランスをとる二歩三歩
虫食いの障子戸にある音符かな
蓑虫にトースト硬くなりにけり
柔らかき黄落を踏む賛歌かな

加地弘子
生身魂話はむかしむかしから
羊雲抱かれし子が指をさす
俗名で呼びかけており冬の月
息白くバラバラに哭き犬五匹

上田真美
きれいねが口癖の君朝露に
河豚になり毒を放出してやろう
寿司を置く一声響き新走り
積み上げた大根の白蒼天へ

岡田ヨシ子
一人部屋数え切れない蜜柑あり
ベランダが日向ぼっこをしていたり
会う度に食事何時と聞くコート
冬晴や洗濯のしわ伸ばしゆく

川村定子
この道はジョンとの散歩草紅葉
踏みちがえ紅葉を行く墨衣
賜りし柚子の一篭描き残す
穂芒が銀の波打つ嵐かな

北岡昌子
境内の緑と紅葉交わりぬ
渋柿を剝いて結べる戸口かな
団栗の傘を拾いて渡しけり
寺の池桜紅葉が映りだす

〈選後随想〉 耕治
末枯や一つの耳に日の当たり 渡邉美保
 末枯(うらがれ)の「末」は先端のことだから、寂しいけれども、単なる「枯れ」ではなくて、草木に色が残る微かな明るさがある。そこに「一つの耳」が置かれている。こう表現すると、普通は片方の耳と受け取るけど、多くの耳の中の一つというようにも受け取れる。美保さんが焦点を当てたこの耳は、どんな音を聞いてるんだろうか。日当たりの中に命を感じながらも、その命がやがて枯れきっていく、そういうことも同時に想像できる味わい深い句だ。

石ころに腹を温める冬の蜂 三好つや子
 石ころは、無機質で冬の冷たさを感じさせるが、ここでは日の温もりを蓄える唯一のものとして置かれている。冬の蜂は、石ころの感触とそこにわずかに残る温もりを求めて、今は動きを止めている。この姿は、営営と暮らしを守ってきた私たち人間の「弱まり」と重なってくるように思えてならない。つや子さんは、冬の厳しさの中で、小さな命が本能的に生きるための最後の努力を続ける、その一瞬を見事に切り取っている。
*君の目が透かし視ている蓮の骨 岡田耕治

2025年12月7日日曜日

香天集12月7日 佐藤諒子、佐藤静香、高野旅愁ほか

香天集12月7日 岡田耕治 選

佐藤諒子
白菊やタクトを振れるピアニスト
立冬の滾る湯光り魔法瓶
短日の木洩れ日の揺れ修験道
日の匂い風の匂いの枯葉かな

佐藤静香
AIに不純のあるや海鼠食む
EUSに腹探られし雪女郎
寒鯉の泡ひとつ吐く恋心
冬欅人格のある老の骨

高野旅愁
ゆっくりと地平老いつつ能登の地震(ない)
震災の妙にやさしい邦雄の書
泪より見るもの無くて冬の雨
平面で背中貼りつく直(ひた)と海

俎 石山
オリオンに手を合わせたり髪白し
差し色にピンクを選ぶ小春かな
さくらんぼ含む唇毒を吐く
大花火君と見紛う顔のあり

牧内登志雄
月よりは三歩で来たる白狐
葉牡丹の重なる業の深さかな
初雪や奥宮までの二百段
玉砂利の静謐に聞く雪の声

吉丸房江
夏掛にまるまっている夜明け前
記念樹に七十七の実の梅酒
二百十日事無きを田の手柄とす
父母在さば今も行きたき熟柿かな

〈選後随想〉 耕治
日の匂い風の匂いの枯葉かな  諒子
 目の前にあるのは、カサカサになった枯葉の山。作者はその枯葉を掬い上げたのだろうか。それには、単なる枯葉の匂いではなく、これまでその葉が浴びてきた「日の暖かさ」と、吹き抜けていった「風の香り」が感じられた。「日」も「風」も、本来形がなく匂いもないものだが、「日の匂い」「風の匂い」と畳み掛けることで、乾いた枯葉の香ばしさや、冬の澄んだ空気感を直感的にイメージすることができる。諒子さんのこのシンプルな表現に学ぶことは多い。
*約束に委ねていたり枯木星 岡田耕治

2025年11月30日日曜日

香天集11月30日 森谷一成、玉記玉、谷川すみれ、夏礼子ほか

香天集11月30日 岡田耕治 選

森谷一成
身の内の風にあらがい秋の蝶 
献杯や今年たわわの柿頒つ
識閾の表にとまり枯蟷螂
人語して老いが顔出すかいつぶり

玉記玉
凭れないで下さい邯鄲の鳴声に
泣くわけにいかず鬼灯鳴らしおり
十二月八日の海を詰めたガラス
見開きはルージュ十二月のan.an

谷川すみれ
天空に骨壺一つちゃんちゃんこ
情報の落ちついてくる薬喰
抜け殻となりにし家よ竜の玉
一人でも立ちつづけたり水仙花

夏 礼子
待ってると絵文字の届く昼ちちろ
屋敷まで来たるこの子よいのこずち
吾亦紅なかったことにしてしまう
亡き友へメール色なき風を打つ

辻井こうめ
黄帽の列に挟まれ鵙日和
天辺の蹴られてしまい天狗茸
麹屋の残る里なり栗ご飯
葉鶏頭国会中継付けしまま

木村博昭
立たぬかも知れぬ脚なり鰯雲
戦なきこの国の空鳥渡る
蟷螂の時の深まるままに居る
登校も下校もひとり木守柿

釜田きよ子
小春日の我に似てきし弟よ
することはあるが出来ない秋入日
痒き背を撫でて欲しきや花芒
秋空に飛ばしていたる白紙かな

柏原 玄
木の実降る分を刻める日なりけり
神渡し湖の水嵩低くあり
ネクタイの迷いを赤と決め小春
閑でなく忙でもなくて冬暖簾

古澤かおる
立冬の御寺根菜届きけり
物忘れの階段からの照葉かな
小春日和絆創膏の下に傷
根性を捨てて置きたる枯野かな

前藤宏子
母似なら余命長そう秋夕焼
木犀や歳時記開くままにして
菊人形武者の襟元まだ蕾
差し入れの蜜柑を囲む会話かな

神谷曜子
風の盆狐のお面二つ買う
病室に夕焼を満たし送信す
日本橋麒麟の羽に秋冷来
冬空へナビゲーションをセットする

楽沙千子
ひとときは少女に戻りくぬぎの実
寒波来る石炭岩へ波の声
擦り減りし辞書にカバーをつける冬
波頭せまって来たり冬の雲

松並美根子
秋風や堤に長く人の波
秋夕焼二色の浜を遠くして
芒原風の向くまま踊りだす
秋の海沖を静かに過ぎゆけり

宮崎義雄
立ち飲みの百円安き燗の酒
熱燗の湯気を宥めていたりけり
熱燗がジョッキに変わる同窓会
秋暁のスピードを上げトレーラー

砂山恵子
満面の宮司の笑顔七五三
初冬や言へぬ言葉をまた溜めて
眠たくて今日は半分海鼠かな
軽トラは農家のポルシェ冬田道

木南明子
傷つきし柿そのままに活けており
夕時雨読経の僧の髪の濃し
柿供え仏間明るくなりにけり
木犀の香りを連れし墓参り

河野宗子
草雲雀遠くから来る母の声
ゆずり葉が咲いて心をのぞかれる
娘に送る柿とみかんとレモン詰め
ワイファイをつなぐ作業の長き夜

田中仁美
冬の蝶せわしくなりて地に落ちる
母からの青いレモンが届きけり
いつまでも赤い色好き万年青の実
小籠包レンゲに乗せて息白し

安田康子
喜寿という若さに生きて茸汁
ぐうたらの一人一日の暮早し
暮早し寂寂として生駒山
老犬の抱かれて散歩冬隣

森本知美
マスカット友の心を飲み込みぬ
伐採に残る枝あり金木犀
裸木の蔭にわが影重ねおり
参観の物産展や銀杏の実

金重こねみ
返すとき俳句の本に柿添える
新米は大盛にして仏様
乗り越えし六十年の竹の春
人里の轍に沈み葛のつる

目 美規子
友逝きて心ぽっかり木守柿
落葉掃くことを初めの運動に
冬葵ドレスの遺影微笑みぬ
お茶処訪ね葛湯で憩いおり

小島 守
幾度も開く手帳の紅葉かな
秋入日大きな丸を貰いけり
自転車に油を噴いて冬に入る
鳶の糞白鮮やかに夕時雨

〈選後随想〉 耕治
識閾の表にとまり枯蟷螂 一成
 「識閾(しきいき)」とは、心理学用語で「意識されるかどうかの境目」、つまり意識と無意識の境界線を指す。来月出版される久保純夫さんの句集名でもある。この句の凄みは、「抽象的な観念=識閾」と「具体的な物体=枯蟷螂」を直接結びつけたところにある。普通蟷螂は、枯枝や草にとまるが、一成さんはそれを「識閾の表」にとまらせた。 これにより、枯蟷螂は実際の風景の中にいると同時に、作者の意識と無意識の境界にいるという、不思議な映像として立ち上がる。この不思議さは、自分が自分であるという思いがいかに微妙なものであるかを物語っているような気がしてならない。

凭れないで下さい邯鄲の鳴き声に 玉
・邯鄲の声は「ルルルルリリリリ」と糸を引くように続くが、その形のない音に「凭れる」という動作を持ち込むことで、人間の重くるしい感じが返って浮き立ってくるようだ。美しい邯鄲の声ゆえに、聞き手が感傷に深く入り込み、その重さをあずけることを制止しているのかも知れない。もう一歩踏み込んで、邯鄲の立場からすると、「私の孤独は、あなたが寄りかかっていいほど頑丈ではないのよ」という、冷たさと精一杯さが同居したメッセージを発していることになる。邯鄲の孤立の内にまで響き入る、玉さんのこの「声」がいい。
*龍骨をはじめに濡らす青女かな 岡田耕治

2025年11月23日日曜日

香天集11月23日 中嶋飛鳥、春田真理子、高野旅愁、安部いろん他

香天集11月23日 岡田耕治 選

中嶋飛鳥
一坪の紫苑の庭を残しけり
うなづくも眼を敗荷へ遊ばせり
家系図に犬の名のあり小六月
神の留守木彫の熊を撫でておく

春田真理子
竹篭は秋の山路となりにけり
銀杏の翠を食みて鎮もりぬ
掘り起こす白き腹あり秋蛙
つややかな蕪ぐき添え朝の膳

高野旅愁
正月の淑女素顔の誰かである
雪白く心を染める過去の街
庭の木に初雪の笠童を訪う
もう誰も来ない道一人冬日

安部いろん
桐一葉音極限値として残る
凍蝶に看取られひとつ世が終わる
乗客の眼にのみ映る寒の海
倒木に完全な影枯蟷螂

宮下揺子
イヤフォンをはずし拡がる秋の空
返り花取り越し苦労ど真ん中
羊雲要らぬことまで思い出す
青空よ泡立草の哀しさよ

中島孝子
どぶろくの御神酒注ぐ音列をなす
瓶傾けとくとくとくと今年酒
満月や列の提灯包み込み
月射すや救急診の椅子硬し

石田敦子
湯上りの釣瓶落しの速さかな
カーテンを全部開いて今日の月
取り取りの秋の草花テーブルに
万博の閉幕となる天高し

半田澄夫
ウイスキーロックコトリン夜長し
日銀の日の丸垂れる秋旱
秋澄めり先ずは鳥居で一礼し
遠太鼓秋本番へ突き進む

川合道子
向かい合う鳥の如しや秋の雲
風爽かトランペットの響く森
初めてのホールインワン蜻蛉舞う
無花果の初めて作るジャムの味

はやし おうはく
風の盆白い項が闇に映え
熱帯夜何を思いて「夏は夜」
秋の空俳句を捻る日々の糧
虫の音に思い出のせていたりけり

〈選後随想〉 耕治
うなづくも眼を敗荷へ遊ばせり 飛鳥
 うなずいてるけれど、敗荷の方に視線を遊ばせているという表現が面白い。うなずきながら、敗荷に目を向けているということだと、自分自身の行為と受け取ることがでる。一方、相手がうなずいているんだけれども、どうもその視線は敗荷の方を見ているようだ、そう読むこともできる。ちょっと気になることがあって、そのことから離れられなくなることがある。そんな中でも、受け答えはしなくてはならない。生きていく上では、こういうこともあるよな、そう思わせてくれる、飛鳥さんの表現だ。

銀杏の翠を食みて鎮もりぬ 真理子
 銀杏は漢方でもあるそうだが、銀杏をパキッと割って薄い皮をはがすと、鮮やかな緑が出てくる。それを食べることによって鎮もっていく。漢方ということだから、自分の体調を落ちつかせるという意味もあろうが、自分の気持ちを鎮めていく、そんな感じがする。「翠」という、この字を選んだ感性、真理子さんに拍手を送りたい。
*飯盒を逆さに蒸らす落葉かな 岡田耕治

2025年11月16日日曜日

香天集11月16日 三好広一郎、柴田亨、平木桂子、湯屋ゆうや他

香天集11月16日 岡田耕治 選

三好広一郎
色なき風と案山子の体臭と
白菜の尻冷え性のアンバサダー
直角に冬日を受けるレゴの街
小春日やフランスパンの中に銃

柴田亨
柔き皺あり祖父の菊作り
むらさきに枯れ残る紫蘇祖母の庭
桐島です遺言ひとつ芒原
行く秋や街の灯包む藍の空

平木桂子
懐にパンドラの箱曼珠沙華
身に入むや母の遺せし備忘録
ぽろぽろと金木犀の遺言状
芭蕉忌や道に迷へる旅となり

湯屋ゆうや
体操の足が揃わぬ青蜜柑
音のなき給水タイム金木犀
まんなかの砂地あかるし運動会
大南瓜けふは歯医者に抗いぬ

佐藤静香
遠稲妻砥石を濡らす漢ゐて
我が恋は箱に納めし秋扇
菊人形身八つ口より暮れかかる
待つといふ愛しき刻や菊香る

嶋田静
秋霖や手鏡の紅濃くしたり
秋澄むや視界は空と海ばかり
小春日や会いたき人の遠く在り
動かずに鉄道を撮り秋日濃し

上田真美
クレーンが描ける未来空高し
生きているこの身このまま新走り
後の月柄杓でひとつ掬い取る
落葉舞う還暦の今これからに

橋本喜美子
高山の風に枯れゆく吾亦紅
群れゐても静かなりけり曼珠沙華
秋風や窓の形に吹き募り
其処此処に居場所を見つけゑのころ草

松田和子
初時雨秘仏観音邂逅す
暮早し小走に来る母の顔
稲雀農園にある荘園碑
看板や牡蠣の匂いを漂わせ

上原晃子
色づきし小さきままの柿の実よ
柵を曲げ糸瓜三本ぶら下がる
仲秋の月が私を覗きけり
だんじりの屋根を跳ね舞う手と団扇

楽沙千子
秋晴を流れていたり笛太鼓
雨粒が車窓を叩く秋の暮
藪陰にまぎれ込みたり秋の蝶
労いの声に弾めり月明り

東 淑子
霧の中深く沈める母屋かな
秋風にお腹ざわざわしてきたる
夕暮に台風の雨降り続く
台風圏奈良の女として生きる

市太勝人
秋暑しブルーインパルス飛行せず
秋祭紅白の幕線路まで
秋風にうまく出来たよパン作り
秋の風万博ロスの人ばかり

〈選後随想〉 耕治
色なき風と案山子の体臭と 広一郎
 「案山子の体臭」が一句の焦点だ。無生物であるはずの案山子に「体臭」という、生々しい感覚を見出した。この体臭は、藁や土、日差しに焼かれた布、あるいは雨に濡れた匂いが一体となった、案山子という存在そのものが発する匂いであろう。これを強調するために、秋風を表す「色なき風」を敢えて持って来た。これは、季語を二つ使わないと表現できない。焦点となる案山子の体臭を浮き立たせるために、あえて色なき風を持ってきた、そんな広一郎さんの工夫がよく伝わってくる。

柔き皺あり祖父の菊作り 亨
 亨さんに「ラドーの腕時計」という文章がある。(「しきじ・にほんご天王寺文集 第3号」)それによるとこの腕時計が「おばちゃん」から贈られたのは、「おじいちゃんはずっと鶏を飼って暮らしてきて、腕時計など身につける習慣はなかった。70歳になっておばあちゃんと続けてきた養鶏場をたたみ、ようやく生活にゆとりができ始めた頃だった」とある。おそらく、この菊作りもそのような頃からだろう。同じ文章には、「おじいちゃんのごつごつした腕」という表現もあり、「柔き皺」とは逆の手や顔の皺だったと想像できる。それを「柔き皺」と感じさせたものは何だろうか。大阪句会で、久保さんが「作者のおじいさんに対する愛情なんだろう」と解き明かした。
*輪になって語るとき来る冬鷗 岡田耕治