2025年8月10日日曜日

香天集8月10日 木村博昭、三好つや子、佐藤静香、春田真理子ほか

香天集8月10日 岡田耕治 選

木村博昭
顔いっぱいカレーライスを汗し食う
物置に物を投げ込む暑さかな
この夏は三年分を老いにけり
八十回目の原爆の日を生きる

三好つや子
地にこぼる虹の一色蝶尿る
正解を探しにゆけり蝉の穴
茄子の馬ハスキーボイス連れ帰る
赤蜻蛉好きな子どこかハーモニカ

佐藤静香
満州を記しし父の書を曝す
尺蠖の空を憧れ直立す
直立から倒立前転海へ向く
黒板のメニューは二品海の家

春田真理子
青蛙葉にしがみつきゆらしをる
昼顔の首を傾げる憂ひかな
横這ひの小さき蟹の流浪かな
冥府より羽黒蜻蛉の舞ひ来たり

佐藤諒子
直線の光りとなりぬ油蝉
夕焼や子ども等の声よみがえり
妹をだまらせている真桑瓜
夕べには巻紙となる木槿かな

長谷川洋子
見舞いおり風鈴の音をたずさえて
咲き終わり近づく花の炎暑かな
玉手箱君待つ鰻櫃まぶし
お結びや萩の小枝と海苔を添え

牧内登志雄
赤子泣くか細き声よ夜の秋
盆波や母さん元気にしてますか
泣きなさい歌いなさいと梯梧咲く
ガザの子の餓死するまでの熱砂かな

〈選後随想〉 耕治
顔いっぱいカレーライスを汗し食う 博昭
 「顔いっぱい」というフレーズから、皿に顔を近づけて、夢中になって食べている様々な様子が想像できる。顔いっぱいに汗をかきながら、口の周りや頬にご飯粒やカレーが付いてしまうほど、大きな口を開けて食べているところ。汗をかきながらも、その美味しさゆえに食べることを止められない。この「汗」が、食欲や熱気、そしてカレーの辛さをリアルに感じさせてくれる。博昭さんがカレーを楽しんでいる様子、そして食べるという行為そのものが持つ情熱が伝わってくる一方、食べることのしんどさも同時に感じさせる一句だ。
*岬町小島にて。

2025年8月3日日曜日

香天集8月3日 玉記玉、森谷一成、夏礼子、辻井こうめ、柏原玄ほか

香天集8月3日 岡田耕治 選

玉記玉
十指老いるワインゼリーの揺れる度
裏側も青い林檎と思いけり
蹼がひらいてきたる生家かな
はんざきと時には父が入れ替わる

森谷一成
票にならぬ事は語らじ百日紅
わが家から先ずは向いの片かげり
大日本帝国海軍吊床苦(ハンモック)
手花火にメメント・モリの起つところ

夏礼子
右耳で聞いてほしいの合歓の花
束の間を考えている蛍かな
これほどに濡れのうぜんの寝入りたる
憂きことを先に忘れるところてん

辻井こうめ
変身の虫にはならず心太
蟬時雨直立にして降りにけり
核心に触れてはならず百日紅
夏海のポールモーリアエンドレス

柏原 玄
冷奴静かに過去の近づきぬ
添削の一字激する百合の花
羅を脱ぐ屈託を捨てるべく
父祖の血を巡らしており天瓜粉

中嶋飛鳥
青嵐いまだ踏ん切りつかぬまま
見倣いて左足から大茅の輪
姉妹かと問われし妣の扇風
蓮の花大和三山正座せる

前藤宏子
縁側の風の記憶と昼寝かな
夏痩を知らず米寿へまっしぐら
白薔薇逢えずにおりし人の逝く
蝉鳴けり楽しむ如く刺す如く

宮崎義雄
一斉に鳴いて鳴き止む雨蛙
雲の峰硫黄噴き出す白煙
寝転ぶや夏野の雲を懐に
焼酎の水滴拭い夜の秋

嶋田静
紫陽花の鞠に妖精現れる
実家無し泰山木の記憶有り
大岩の女鎖に惑う夏
星祭宇宙の人とハイタッチ

森本知美
廃校に老人集う半夏生
夏霧や歳を忘れている仲間
故郷のことば忘れし大暑かな
蓮まつりはちすに見つめられている

安田康子
水中花生き抜く術を知っており
百歳まで友と一緒と青胡瓜
誰もいぬ故郷のあり梅雨の空
短夜や形見のカメラ電池切れ

木南明子
夕方にせわしくなりぬ赤とんぼ
米寿かな大樹となりし百日紅
つがいかも知れぬ行手の夏の蝶
遠雷や昨日と今日の区別なく

松並美根子
夏空や香りを寄せる風のあり
縁側に老いて味わう土用凪
声小さく多くの蝉の飛ばぬまま
目立たなくなっているなり半夏生

目美規子
夏空を旋回ブルーインパルス
夾竹桃予約カットは午前中
分けられし胡瓜ずんぐり太り気味
ゴキブリを踏まんと構え逃げられし

金重こねみ
献立に汁物加え若葉冷
鮎を焼く塩の一振り多くして
ふんばって両手は腰に雲の峰
耳かきを探しあぐねる合歓の花

吉丸房江
分け合いて虹の形のドーナッツ
七夕祭紙から鶴の生まれけり
梅仕事天気予報とにらめっこ
過去たちが踊り出てくる箪笥かな

〈選後随想〉 耕治
裏側も青い林檎と思いけり 玉
 木なっているリンゴを見て、「まだ青いな、きっと裏側も青いのではないか」と思った。人間というのは、見えてるところだけではなく、裏側、見えないところへも意識を向けていくことができる。表側も、見えない裏側も青いということは、まだ未成熟だけれども、同じ青い色をしているというところに、この林檎そのものを肯定しているような感じがする。そこから広げて、同じ青い色をしている、未熟な自分を肯定しているような、そういう気分がしてくるところが、玉さんならではの感性だ。

大日本帝国海軍吊床苦(ハンモック) 一成
 私は毎年ハンモックの俳句を作るが、ハンモックってこんなふうに書くのかなと、調べてみた。吊床と書いてハンモックと読むので、ついている「苦」は、一成さんがつけたのか、それとも誰か、まさに兵士がこう書いたのを見つけたのか、どちらかだろう。大日本帝国海軍というこの重々しい言葉に、ハンモックをつけたのは、船中に吊るされた床に寝る兵士たちの苦痛を表したかったのだと思われる。また、括弧してハンモックと書かれているので、漢字とのギャップも面白い一句だ。(「香天」誌上では、ハンモックとふりがなを打ちます。)

憂きことを先に忘れるところてん 礼子
 ところてんの透明でツルツルした喉越しは、どんなこともすり抜けていくかのような感覚がある。一口目は、「憂きこと」、二口目からはゆっくりと「良きこと」を思いながらところてんを愉しむ。ここには、時の流れや日常の小さな楽しみが、心を癒してくれるという、前向きな捉え方が込められている。人生の苦みを、静かな目線で捉え、それを優しく包み込むような温かさを感じる、礼子さんらしい一句だ。

変身の虫にはならず心太 こうめ
 これはカフカの小説で、目覚めたら虫になってたという『変身』を想起させるが、そうでなくとも、甲虫とか蝶というような生き物になりたい、なにかに変わりたい、もっと違う自分になりたいというような気持ちを象徴しているのかも知れない。けれども、そういう変化は起こらず、ただ普通に起きて心太を食べている。自分は思うようには変われない、現状維持がやっとだけれど、まあこの心太は美味しいね、というような。一見するとおかしみのある取り合わせなんだけれども、その奥には理想と現実のギャップに対する、ほのかな哀しみが感じられる。こうめさんの句には、すてきな絵本や物語が登場する。

父祖の血を巡らしており天瓜粉 玄
 夏の暑さ、汗ばむ肌、それを優しくはたく、さらさらとした天瓜粉の感触が連想される。風呂上がりのそれは、不快な汗を吸い取り、肌を心地よくしてくれる、日常のささやかな安らぎのひとときである。遠い先祖から受け継いだ命、今ここに生きる自分という存在を浮き立たせる、静かで深いひとときなのかも知れない。さらに天瓜粉は、カタクリやクズなどの植物から作られる、言わば自然の恵みだ。その粉を身にまとう行為は、大地に根ざした生命の循環を想像させる。自分という存在が、先祖から受け継いだ命だけでなく、自然の恵みによっても生かされているという、大きな生命観を表現する玄さんの作品である。
*滋賀県庁にて。

2025年7月27日日曜日

香天集7月27日 神谷曜子、谷川すみれ、前塚かいち他

香天集7月27日 岡田耕治 選

神谷曜子
満開のアカシア黄泉の匂いけり
矢車草心の蒼を深くする
手術せぬ治療もせぬと白木槿
ふる里の花野に置いて来た一冊

谷川すみれ
辞書を繰る指やわらかく秋立ちぬ
オムレツの大きさ同じ台風圏
次の手を考えている白い栗
地球儀に置き続けたる秋思かな

前塚かいち
アガパンサス咲いてこの世が曖昧に
猫の目が吾を追うなり若葉風
アンテナに絡むを任せ時計草
どくだみを残し空家の庭を掃く

安部いろん
女には大気のちから梅雨晴間
貝殻に海の傾く梅雨の月
蛍の火ひととき忘れたい記憶
落雷や闇の寡黙の中に生く

古澤かおる
白靴の待たされている箱の中
踝が浴衣の裾を急かしおり
主電源一旦切りて大昼寝
箱庭の造花を眺め不眠症

俎 石山
睦言の潜んでいたり片蔭り
備蓄米炭酸水で炊いてみる 
水茄子を齧りし酒の甘さかな
夕顔に病み伏す人の小さな手

岡田ヨシ子
盆近し急ぐ退院ままならず
腰骨の痛み通せり蝉しぐれ
朝曇り小さき虎が通りゆく
亡き夫の迎えを待ちぬ盆の月

〈選後随想〉 耕治
矢車草心の蒼を深くする 神谷曜子
 矢車草は、鮮やかな青や紫の花を咲かせ、どこか素朴でありながらも、その色彩は強く印象に残る。「蒼」という色は、どこまでも続く空や海の青のように、広がりと静寂を感じさせる一方で、物悲しさや憂いを表すことがある。「心の蒼」となると、単なる明るい感情ではなく、内省的な、あるいは少し切ない感情を想起させる。矢車草を見つめることで、作者の心の中にある「蒼」の感情が、より一層深まっていく。矢車草の佇まいそのものが、曜子さんの心の奥底に眠っていた感情を呼び覚ますのかも知れない。
*岬町小島にて。

2025年7月20日日曜日

香天集7月20日 三好広一郎、柴田亨、木村博昭、砂山恵子ほか

香天集7月20日 岡田耕治 選

三好広一郎
鉛筆は立ったり寝たり梅雨晴間
炎昼や空気のような塩で生き
八月や紙人形のような人
蛇と蝉濡れた透明な時間

柴田亨
駆け抜ける蜥蜴に虹の切れっぱし
ほっとしてやがて淋しき祖父の百合
ベトナムの友の折り鶴星祭り
この林老鶯のあり統べており

木村博昭
ふところに身代り地蔵青嵐
潰されしペットボトルの旱梅雨
大阪の地下街をゆく金魚玉
大いなる女の尻や田水沸く

砂山恵子
路地胡瓜あれは若さの手前の香
トマト赤し厨の空気動き出す
空蝉にそつと触れるとまだぬくし
ひようひようと倒れし親父水鉄砲

平木桂子
短夜や夢の意味問ふ夢の中
病院の夜に戻れる蝉の声
父母を練り込んでゆくはつたい粉
十薬やクルスを捧ぐ殉教者

上田真美
ビヤホール今宵は空に溶けましょう
七夕のいまだ逢瀬を願いけり
貝拾い旅の話を聞いてみる
色が好きアガパンサスの響きも好き

楽沙千子
アイロンの余熱を使い梅雨湿り
灯火に狂う火蛾来ぬサッシ窓
性格を出して親しくなる端居
日焼子のかけ出して行くチャイムかな

〈選後随想〉 耕治
鉛筆は立ったり寝たり梅雨晴間 広一郎
 先日の大阪句会で話題になった句。久保さんが「鉛筆は作者だろう」と鑑賞した。私は、書き物するときに鉛筆を立てたり、でも疲れたら寝かしたりという風な、鉛筆そのものが立ったり寝たりしているという、まずその情景を思い浮かべた。そこから更に、その鉛筆が作者だというふうに踏み込んでいくと、梅雨にたまたま訪れた晴れの日、立ったり寝したりしている姿、悶々としながら書き物をしている、情景が浮かんでくる。そのことが皆さんの共感を呼んだにちがいない。広一郎さんが、立ったり寝たりしながら「香天」連載の俳句ショートショートを書いている姿を想像すると、たのしい。
*東京都千代田区にて。

2025年7月13日日曜日

香天集7月13日 三好つや子、浅海紀代子、平木桂子ほか

香天集7月13日 岡田耕治 選

三好つや子
ひらがなの農業日誌麦嵐
天の川先割れスプーン流れつく
生意気が色とりどりの夏サラダ
人柄のぷりっと光る茄子かな

浅海紀代子
新緑をくぐり路地まで戻りけり
この路地は一方通行夏つばめ
リハビリのドアの一歩に緑さす
軒簾猫と老女の住処かな

平木桂子
スプーンで攻めるも楽しかき氷
人生の帳尻合わす昼寝かな
前だけをただ前だけを蟻の列
紫陽花や色を失う前屈み

高野義大
湖に春天元に太陽神
桜見てきてアメリカが遠くになり
花明り夜に目覚めがちなる男
十一月草木と在り青の朝

春田真理子
青田から突き立つ鉄塔連なれリ
踏ん張ってつかまり立ちぬ額の花
大空を目指し進めぬ蜻蛉かな
誰しにも系譜のありて瓜の花

宮下揺子
辻桃子逝く潔き花氷
夏始化粧男子の肌の色
かたばみの花薄れゆく父の声
来し方を褒めて帰りし西日中

佐藤諒子
手鏡にやまんばぬっと山笑う
メンバーはいつでも同じ新茶汲む
青梅雨や男子学生髪束ね
軽軽としっぽのゆらぎ青蜥蜴

牧内登志雄
青時雨水琴窟はモデラート
故郷は捨ててきたのに瓜の花
二三列乱れていたる青田かな
朝採のちくりちくりと青胡瓜

松田和子
花蘇鉄潮の岬の過去のこと
ちりりんと風鈴の寺めぐり逢い
青葡萄試飲夢中のワイナリー
汗をかく乳房に残る塩の花

〈選後随想〉 耕治
ひらがなの農業日誌麦嵐 三好つや子
 岩手県へ行った時に、ここでは米ができにくいので蕎麦だと、農業に携わる人がおっしゃってたことが耳に残っている。農業に関わる人が、ひらがなで日誌を書いているという。おそらく卒業以来農業に携わってきた人が、ひらがなで日々の作業のことを書いている。そこに麦嵐が吹いてきたという。非常に広大で力強い麦嵐と、農業を支えている営みの証である日誌と、この取り合わせが、厳しい自然に向き合うことの誠実さを表現していて、つや子さんならではの一句となっている。

新緑をくぐり路地まで戻りけり 浅海紀代子
 先日の大阪句会で浅海さんのこの句が話題になった。久保さんが、路地というのは「異界」とつながるところだとおっしゃった。中上健次だと、路地というのは、自分のふるさと新宮のことを表現している。そんな「路地=ふるさと=異界」まで戻ってきた。で、その前にどうしたかというと、新緑をくぐってきたと。この新緑をくぐるみずみずしい感覚と、いつもの自分のベースである路地へ戻ってくるということが照らし合っている。新緑の生命力に満ちた世界から慣れ親しんだ静かな日常の世界へ戻り、改めて自分の居場所に帰り着いた時の、心の落ち着きを描いている。
*岬町小島にて。

2025年7月6日日曜日

香天集7月6日 中嶋飛鳥、渡邊美保、森谷一成、佐藤静香ほか

香天集7月6日 岡田耕治 選

中嶋飛鳥
狛犬の樅の木落葉まみれなる
糸底のざらついている麦の秋
ラタトゥイユ寸胴鍋の夏たのもし
書を曝す風の畳を広くして

渡邉美保
梅雨旱山羊が囲いを頭突きする
せめぎ合ふテトラポッドや日雷
尻軽のハグロトンボについてゆく
竹皮を脱ぐ新しき老いわたくしに

森谷一成
列島をゆする若葉の大爆発
凌霄の花に囲まれ空家かな
冷房や誰が匿しおく公文書
体幹をねじり直さん六月尽

佐藤静香
スプーンに映る我が顔半夏雨
尻高く超える跳び箱梅雨明ける
絶筆となりし師の書や青嵐
水中の蛇の速さの孤独かな

浅海紀代子
落ちてから慕われている椿かな
つばめ舞う窓からの日日病衣着て
尾を立てて迎えて呉れる猫の子よ
春の闇紛れ込みたい時のあり

平木桂子
死ぬ時も道化てみたし桜桃忌
梅雨闇やバケットリスト書いてみる
梅雨晴や洗濯ばさみあとひとつ
六月のビシソワーズに朝来たる

高野義大
雷のごとく枝張る冬虚空
昼の雲光抱擁し対峙する
松の内手さぐりで来て力尽き
しんしんと雪降る夜の未練かな

長谷川洋子
「あ・り・が・と・う」病の床の汗みずく
白き布掛けられし胸夏の菊
短夜の写真に話しかけており
ガラス器に河原撫子供えけり

橋本喜美子
しまなみの橋渡る風夏来る
春蝉の声揃ひたる千光寺
名物のレモンソーダの列に入る
白藤の香の誘ひくる房のあり

半田澄夫
わが思い湯煙に乗り春の空
春風を受けアパートの大漁旗
大欠伸桜吹雪を飲み込みぬ
花びらを受けたこ焼きを待つ背中

吉丸房江
米粒に父母ありて先祖あり
水田や九十年を変わりなく
夏の妊婦多くの人に期待され
荷を作る畑の温もり確かめて

上原晃子
ふぞろいのバケツを満たす穀雨かな
新緑や子どもが好きな槇尾山
雨のあと新緑を行く今朝の道
熊蜂の多く飛び合う祭かな

北橋世喜子
バラの葉を巻いて憩えり青毛虫
加茂川を走る二人の額に汗
刻刻と湧き出してくるおおてまり
呼ぶ声に目覚めていたり春の夢

中島孝子
筍ごはん湯気と香りを混ぜ合わせ
朴散華一枚拾い母偲ぶ
蓬摘む籠の重さよ畦日向
故郷の言葉静かに干蕨

石田敦子
触れてみる花やわらかく白牡丹
ネモフィラの側で見ている瑠璃色よ
葉桜や風吹き荒ぶ日となりし
独りには五個の草餅多すぎる

東淑子
花菖蒲我から先に見に行かん
蜆汁青を浮かべて一息に
猫の妻特に今夜は狂おしく
群れをなすおたまじゃくしの夜となる

〈選後随想〉 耕治
書を曝す風の畳を広くして 中嶋飛鳥
 この句は、先日の句会に出されたとき、「書を曝す仏間所を狭くして」という形だった。入選にいただいたので、沢山の本の存在を感じると選評した記憶がある。香天集の投句でこの形になっているのを見て、飛鳥さんが自分の俳句を何度も推敲している努力が感じられた。「風の畳を広くして」という表現は、原句をとどめないほどこの句の情景を際立たせている。事実としての「仏間」ではなく、「風の畳」とすることで、書物を広げて風に当てるために、畳の上に多くの書物が並べられている様子が目に浮かぶ。風が書物をめくり、その周りを吹き抜けることで、畳の間がより広く感じられる視覚効果があり。風がその場に生命を与え、空間を「広く」感じさせている。書物が並べられた畳の上は、知識や歴史、物語が詰まった空間だ。それらが風に当たることで、まるで書物から知識が放出され、精神的な広がりを感じさせるようでもある。書物と向き合うことで、飛鳥さんの心もまた、広がりと落ち着きを得ているにちがいない。

梅雨旱山羊が囲いを頭突きする 渡邊美保
 この句は、句会で木村博昭さんが、「この山羊の気持ちがわかります」とおっしゃったとき、会場に共感の笑いが起こった。現在の私たちは、何かわからないものに囲まれていて、そして頭突きでもしたくなるような、鬱陶しい情況に置かれている。あちらこちらで戦争が始まって、こんな世の中に一気になるものかと思うことが度々ある。そんなこの世で、山羊が囲いを頭突きするというのは、まさに自分が何がこの世の中に対するNoをぶつけているような感じだ。旱梅雨の、蒸し暑いし乾燥している、そういう鬱陶しさ、そういう時代への苛立ちを感じさせてくれる美保さんの書き方がいい。
*大阪教育大学天王寺キャンパスにて。

2025年6月29日日曜日

香天集6月29日 玉記玉、辻井こうめ、谷川すみれ、夏礼子ほか

香天集6月29日 岡田耕治 選

玉記玉
新樹光さりさり少年をこぼす
夏至の水滾らせているガラス鍋
ひめむかしよもぎと書こう青い紐
スプーンの渚に涼夜来ていたり

辻井こうめ
一筆の末に蛍のことを書く
椅子三つ並ぶ深海昼寝覚
太陽の色を授かり花柘榴
青梅の梅肉エキス煮詰めをり

谷川すみれ
緑蔭をくぐってきたる背広かな
わが死後の傾斜二十度楠若葉
訃報来る鰺の干物を焼いている
書くことの少なくなりて蟻の列

夏礼子
約束の午後の近づく花ざくろ
さみどりに思考の染まる緑雨かな
口紅のうすく残りし洗い髪
紫陽花の揺らしていたる記憶かな

柏原玄
難敵に備えていたり更衣
十年となりぬ海芋の白い襟
聞き流すことを覚えて立葵
夢追うて生きているなり蝸牛

高野義大
正月のわが身を愛す朝日受け
昼の雲光抱擁し対峙する
朝の月しばらく君とここにいる
秋風に帰れるところ我にあらず

加地弘子
ジャスミンに佳き風のあり結婚す
蚊喰鳥雲梯で母待っている
羽抜鶏家の者から眼を逸す
引越しの記念となりぬ合歓の花

俎石山
はしり梅雨サーカスの子が転校す
更衣痩せた鎖骨に覚えあり
河鹿鳴きリュックを降ろすための石
ネックラインいかに広げん更衣

神谷曜子
紀伊國屋浅利弁当買いて発つ
常盤木落葉やり残したことのように
空爆の止まず彼方の旱星
川音や昼顔として流れくる

前藤宏子
七変化心の色になりにけり
我が身丈縮まるばかり松の芯
予定なき用事を作りサングラス
草笛の音色を残し別れけり

楽沙千子
頬を撫で青田に戻る朝の風
梅雨冷や捗り遅き針仕事
子らの来て目尻細める父の日よ
生きがいの講義につづく百合の花

森本知美
人は皆永久欠番浜万年青
袋掛け体験授業の瞳澄む
水遣りの畑をおそう大夕焼
鯵の目の透明をほめ三杯酢

田中仁美
せいろから湯気立ち込めるキャベツかな
五月雨の大屋根リング下で待つ
暗闇の退場ゲート白い靴
ブンブンと腕振り回し赤子の夏

河野宗子
初夏や笑えば二本光る歯よ
若竹や七キロの子の腕太し
朝曇り確かめ戻る鍵の穴
品格を持ちて泳げり目高の子

安田康子
でで虫のモンロー歩き雨上り
五月雨サーキュレーター首を振る
夏ギフト一筆箋を添えておく
黒南風の久しくめでる陶器市

松並美根子
紫陽花の雨欲しいまま寺の中
薔薇の名を覚え忘れてしまいけり
父の日やあっと言わせる何でも屋
束の間の時を惜しみて蛍かな

金重こねみ
梅雨最中新大臣の健闘す
夏めくや水路の音もまだゆるり
ホルモンのバランスくずれ五月雨
かき氷半分ずつを愉しみぬ

目美規子
ほくほくをがぶり新じゃがバター味
梅の瓶美味しくなれと揺らしけり
五月晴害虫駆除のポンプ音
梅雨に入る遺影は若きままであり

木南明子
窓叩く雨降る速さ十薬に
母の日を祝ってくれる百合の花
沢蟹の泡ぶくぶくと通りけり
紫陽花や母の命日慈しみ

〈選後随想〉 耕治
夏至の水滾らせているガラス鍋 玉記玉
 昼が最も長いということは、その日を境に昼が短くなっていくので、夏至は、時の移ろいであったり、過ぎ去るものへの寂しさを感じさせる。夏至の強い日差しの下、透明なガラス鍋の中で水が激しく沸騰しているという写実的な情景は、句会では不思議な光景であるとか、何か実験をしているようだと評された。このガラス鍋というのはとても面白い素材で、鍋という席題が出て、「ガラス鍋」を思いついた発想に敬嘆する。夏至の水が煮つまっていく熱気と同時に、ガラスという素材がもたらす清澄な美しさも感じられる。この夏至のパワーの中に透明感のある繊細な美しさを見出した玉さんならではの一句だ。

一筆の末に蛍のことを書く 辻井こうめ
 一筆というのは、一筆箋とか、ちょっと事務的に伝えたいことを簡潔に書くというイメージがある。伝えたいことを書いたけれど、それだけでは足りない気がして、蛍のことを書き足した。そのことが、なんとなく恋文のような意味合いを持ってくる。池田澄子さんに「逢いたいと書いてはならぬ月と書く」という句がある。逢いたいと書いてはならぬというのは、いろんな取り方ができて、コロナ禍で面会もできないことかも知れないし、それこそ道ならぬ恋かも知れないし、色々な場面が想像できる。この句も、一筆の最後に蛍のことを書いて自分の気持ちを蛍に託す、そんなこうめさんの息づかいを感じさせてくれる。
*大阪府庁前にて。