2025年6月15日日曜日

香天集6月15日 渡邉美保、柴田亨、湯屋ゆうや、三好広一郎ほか

香天集6月15日 岡田耕治 選

渡邉美保
梅雨の月魚礁となりし潜水艇
尺取虫スカートの縁巡りをり
螺旋階段上りつめたるかたつむり
掛軸を飛び出す鯉の水しぶき

柴田亨
包み込む傷ひとつあり六月来
かき氷崩れる前を見つめ合い
紅掛けの空に風鈴透きとおる
足裏の木目の涼し大伽藍

湯屋ゆうや
さっきから蝶は左へ行き過ぎる 
画廊にはちさき天窓夏来たる
首擡ぐ子燕たちの当てずっぽう
搭載は初めからなの蝸牛

三好広一郎
空の鍋伸びる手いくつ麦の秋
ぽつねんと秘境暮らしや苔の花
温暖化の話を避ける夏の牛
コーヒーはブラックですか梅雨入りですか

前塚かいち
今しもあれ瑞穂の国の田植唄
どくだみの白きを残し空家掃く
よく眠る未生以前のハンモック
猫の目が吾を追うなり若葉風

楽沙千子
蔦茂る大きな岩をかかえ込み
くろぐろと梢蠢く梅雨の月
卯の花腐し約束を反古にする
秒針の微かに鳴れり明易し

岡田ヨシ子
入院を迎え待つ身よ梅雨に入る
病室に風通りゆく梅雨鴉
ガレージの地下を流れて梅雨出水
つつじ咲く小さな旅もままならず

松田和子
メールなき友に手をふる青嵐
紫陽花や雲の景色を眺めるいて
雑草の人参の花悠々と
朝日あび囀りとして騒がしく

〈選後随想〉 耕治
梅雨の月魚礁となりし潜水艇 渡邉美保
 先日の大阪句会で、私は選ばなかったが、谷川すみれさん、中嶋飛鳥さん、柴田亨さん、久保純夫さんが選ばれ、それぞれの鑑賞を聞いているうちに段段よくなってきた一句。句会の楽しみは、自分が取らなかった句にも及ぶ。
 今梅雨の最中なので、梅雨の重苦しい空気の中に、かすかに月が出ていることを目にすることがある。月は、ぼやけて見えたり、雲間に隠れたり、不安定だけれども、やわらかい光りを届けてくれる。久保さんは、潜水艦ではなく潜水艇という小ささに着目し、「魚礁」だからこの小ささに納得、と言われた。柴田さんは、命の循環を感じる、と。潜水艇は人工物であり、その最期は沈没という結末だったにちがいない。しかし、それが新たな命の住処となる「魚礁」へと姿を変えることで、死と再生を出現させている。梅雨の月は、海底のそんな情景にまで、光を届けている。あるいは、美保さんの心の中で、月の光がこの隠された情景を浮かび上がらせたのかも知れない。
*岬町小島にて。

2025年6月8日日曜日

香天集6月8日 佐藤静香、三好つや子、春田真理子、宮下揺子ほか

香天集6月8日 岡田耕治 選

佐藤静香
片恋の畳めぬままの白日傘
みなもとは青嶺の雫長瀬川
入鹿の血飛び散りし野を水鶏笛
潜みたる軍靴のありぬ梅雨鯰

三好つや子
絵日傘をくるり傾け母の羽化
栗の花未明の雨の匂いあり
夜遊びや浴衣ぬけだす金魚たち
夏蜜柑二つ長居をして仏間

春田真理子
蓬野よ山も霞の向こうにて
煩悩のひとひらずつを木蓮華
晒されて温厚になる山の独活
先住を主張している狸かな

宮下揺子
フィクションとフェイクの間養花天
麗しき目鼻の僧や柿若葉
豆皿に春のあれこれ昼餉かな  
夏落葉先に勝手に逝きし人

秋吉正子
鳥巣立ち静けさもどる隣かな
犬の名を聞き合っている五月雨
退院し長い五月の終わりけり
日日草小さき芽を出し何を待つ

川村定子
病める身に一つたまわる桜餅
我が庵寄りて離れて笹鳴ける
花の絵を一枚残し退院す
俯瞰する新樹の渓を雲渡り

北岡昌子
牛蛙姿を見せず鳴いており
五月の夜負けてもダンス甲子園
鬼やんま小さくなって飛び交いぬ
友と行く藤のカーテン通り抜け

大里久代
五月雨や八十年の追悼式
カーネーション赤とピンクの赤強し
黒目高腹に卵をくっつける
接木して胡瓜の苗に南瓜が

西前照子
ずんだ餅奥歯外れてしまいけり
三人の頭に菖蒲巻きつける
オープンのカーネーションに足止まる
蕗の葉が揺らしていたり表裏

〈選後随想〉 耕治
片恋の畳めぬままの白日傘 佐藤静香
 「片恋」は、一方の側からだけ誰かを恋しく思うことで、若い頃のそれはやるせないが、年齢を重ねると、この日傘のように畳めぬままでもいい、そのように感じるようになる。もっと言えば、片恋のままであることを愉しむというか、別にそれを畳むようなことをしなくてもいいとする、そんな静香さんの心持ちに共感する。「畳まぬまま」だと、自らの意思が働くが、片恋ゆえの不安定さや傷つきやすさのゆえに、「畳めぬまま」なのである。
*しきじ・にほんご天王寺の学習者の作品。

2025年6月1日日曜日

香天集6月1日 玉記玉、森谷一成、夏礼子、柏原玄ほか

香天集6月1日 岡田耕治 選

玉記玉
夕焼や鉄棒の身を二つに折り
緑蔭や園児の帽を読み直し
兵ー人蛍袋に入り込む
くすぐったくてペチュニアになりそう

森谷一成
藤波のらせんの空へ鈴鹿越
土手青む遠近法をはたらかせ
ペンキ屋の一大事なる天道虫
筍や隣の土を潜り出で

夏礼子
著莪の花秘すと決めたることのあり
濃ゆくなる揺れのめまいよ藤の花
母の日のかあちゃんとふとひとりごと
ふるさとへとんで行きたりはじき豆

柏原玄
船旅の装いを決めヒヤシンス
愛用の肩掛け鞄鳥雲に
春の航水平線の円のなか
冷素麺深呼吸する島とあり

辻井こうめ
スマイルのシール貼り付け鯉のぼり
ゆつくりと底板沈め菖蒲の湯
白靴のエイッと跳びぬ水たまり
待ち渡る青水無月の無人駅

中嶋飛鳥
かげろうの糸口つかむ無人駅
パリー祭片目のままにダルマ古り
竹落葉ふわりと包む靴の音
頭韻のみなもととして日雷

前塚かいち
アンテナに絡むを任せ時計草
やがて来る姿を待てりカサブランカ
北前船着きし港よ小判草
放哉の句碑の手触り青葉風

前藤宏子
若き考アルバムにある夏衣
葉裏から毛虫が話しかけてくる
夏帽子友は五つも若返り
更衣頭も整理しておりぬ

森本知美
薫風や歯を磨きつつ庭歩む
筍と米糠呉れる友若し
仮の世の出会いのひとつミニトマト
捨て藪の竹皮を脱ぐところかな

松並美根子
校門の朝の挨拶風光る
浜からの声高くして立夏かな
パンジーの微笑満つる集いかな
菖蒲湯に満ちたる香り風に添う

安部いろん
半仙戯戻れないこと識るための
蝶眠るフィトンチッドを浴びながら
滝の音鯨の声に変わりゆく
浄玻璃の鏡降り立つ夏野原

安田泰子
道草の途中喜寿なり緑さす
子供の日震災に遭うすべり台
子供の日座敷を広くしていたり
美容院の帰りは雨や紫蘭咲く

長谷川洋子
夢叶う最期に観たき大花火
大花火一夜の音をヒュルヒュルと
琵琶湖から上がる花火の余命かな
笹の葛感謝の心届きけり

松田和子
若草やおむすびころりべそをかく
終活と決めては戻す更衣
風物詩の舞台は川へ鯉のぼり
産土の和歌の心や白牡丹

金重こねみ
夏みかん友の顔へと届けおり
自転車の子どもの席に筍よ
チョコレートぐにゃりと割れて夏きざす
親も子も精根の尽き子供の日

田中仁美
台湾の夜市を巡り夏きざす
掛け声でランタン飛ばす夏の朝
マンゴーのてんこ盛りなりかき氷
夏帽子なくして風の行方かな

目 美規子
大手鞠古刹の鐘の響きあり
山藤や峠を下り大和路へ
長谷寺の茶屋に誘われ桐の花
著莪の花女人高野は雨の中

木南明子
ひるがおの海への道はさびしかり
雑草のひとつとなりて月見草
夏帽を取らずに言葉交わしけり
羽根飛ばす鴉の喧嘩青嵐

牧内登志雄
捨苗の一尺ほどに立ちにけり
開け放つ窓に大きく雲の峰
独り寝の朝に姦し不如帰
見てくれと言はんばかりに咲くダリア

河野宗子
枇杷の実や袋の中でもがきたる
ペダル踏む素足の少女風を切る
夏物を出しては戻す今朝の雨
焦げついた鍋をこすれり五月雨

吉丸房江
大らかに生きてきたりし豆の花
カーネーションや母よりも長く生き
アスファルト割ってたんぽぽ一年生
お日様の匂いのシャツよ退院す

大西孝子
朝露に輝いている芝生かな
すず風にうとうと心温める
子どもらとかけっこをしてありがとう


〈選後随想〉 耕治
緑蔭や園児の帽を読み直し 玉記玉
 幼稚園児はどこへ行くかわかりませんから、緑蔭に入って、子どもの数を確認しているところでしょう。句会で見たときは、「数」となっていましたが、推敲の上「帽」となっているのも即物的で更によくなりました。校外学習に連れて行って帰ろうとするとき、何回数えても数える度に人数が違うことがありました。子どもたちも疲れているし、こちらも疲れているので、なかなかピタッとこないのです。最後は「隣の子はいる?」と呼びかけて、「いる」と返ってきたら出発しました。そんなハラハラする緑蔭もあるというか、どこか不気味な緑蔭の暗さと、子どもたちの赤か白の帽子の明るさのコントラストが印象的です。
*大阪市大正区にて。

2025年5月25日日曜日

香天集5月25日 加地弘子、谷川すみれ、古澤かおる、砂山恵子ほか

香天集5月25日 岡田耕治 選

加地弘子
さつき雨眠くなったら寝るといい
シャボン玉振り向かないで風に乗る
蛇苺花の黄色は孤独です
風船の空へ抜け出す時の声

谷川すみれ
一日を解き放したる素足かな
やあやあと偵察飛行の蠅が来る
望まれて握手をしたる緑かな
ひなげしの群れてもひとりそれでいい

古澤かおる
葉桜のベンチに二人且つ長靴
蚕豆を茹でるか焼くか聞いており
髪を切り捩り鉢巻夏祭
葉桜や娘の老いに気付かさる

砂山恵子
朝五時の当直室のシャワー音
デラシネの意味覚えたる余花の寺
暮れるほど風甘くなる田植かな
夏の風原子記号の表破り

嶋田静
里山の高さを続け鯉のぼり
山小屋のカーテン染まる若葉かな
麦の秋雨の近づく気配して
青嵐ロビンフッドの潜みおり

松田和子
切株を飾っていたり落椿
水面へと浮き立つ人の花篝
朝市はや壺焼の香の届きけり
一椀を独り占めする浅蜊かな

〈選後随想〉 耕治
シャボン玉振り向かないで風に乗る 加地弘子
 シャボン玉は、人のようにふり向くことはない。けれども敢えてこう表現されると、去っていくものへの惜別の念が込められているように、あるいは、前向きに進んでいくことへの応援のようにも感じられる。シャボン玉が自分の力ではなく、風という自然の力に身を任せて進んでいく様子は、人生において時の流れに身を委ねるしかないことと重なる。それを、この軽さで表現できるのが弘子さんだ。
*岬町小島にて。

2025年5月21日水曜日

「香天」79号本文

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香 天 koten   2025年5月   通巻79号
  目 次
招待作品           2 ふけとしこ、松下カロ
招待作品           4 杉山久子、金子 敦
代表作品           6 岡田耕治
同人集           10 50音順送り 本号は「ゆ」から
同人集五句抄        26 加地弘子、谷川すみれ他
同人作品評         30 柴田 亨、夏礼 子
誌上句会選句集       32 久保純夫、ふけとしこ他
随想            45 石井 冴
香天集十句選        46 玉記 玉、渡邊美保
創作 俳句ショートショート 51 三好広一郎
香天集  岡田耕治 選      52 嶋田 静、玉記 玉、
渡邊美保、三好広一郎ほか
選後随想          80 岡田耕治
句会案内          88


2025年5月18日日曜日

香天集5月18日 木村博昭、谷川すみれ、三好広一郎、柴田亨ほか

香天集5月18日 岡田耕治 選


木村博昭

稀に来る緩いカーブや草若葉

鳥曇やれば尽きない死に支度

天道虫発つ軽さにて家を出る

濡れ縁の遺品となりし箱眼鏡


谷川すみれ

開かない大きな窓の椎若葉

更衣火傷の後に唾をつけ

男来て砥石を濡らす夏夕べ

仏壇の捨てられ守宮動き出す


三好広一郎

空缶を蹴飛ばすまでの花筏

8ミリは人間らしく夏夕べ

昼寝覚妻を跨いで米買いに

杖はいるか友はおるか葱坊主


柴田亨

始まりは新聞受けの風鈴草

友つ人散らかしたまま四月逝く

旅立ちを見送りており春落葉

五月来る緩和病棟桃プリン


神谷曜子

晩陽が菜の花連れてゆく堤

諸葛菜に占領されている私

世界中の桜を散らし大男

『青い壺』第四章の白牡丹


宮下揺子

誤字なるを謝っている春の風

八重桜原爆投下八十年

朽ち果てしツリーハウスや花茨

捩り花ひっくり返る正義論


平木桂子

ニュータウンたった一つの鯉のぼり

太き棘知らぬふりする薔薇かな

おほかたは取り越し苦労藤の花

行く春や兄の終活飄々と


上田真美

この際の歳はさておき緑立つ

花水木風にあなたが似合ってる

ミャクミャクと私と老母若楓

若葉寒車椅子から万博へ


〈選後随想〉 耕治

稀にくる緩いカーブや草若葉 木村博昭

 「緩いカーブ」は、まっすぐで単調な道が続いた後、ふと現れる緩やかな曲がり道を描写していると取れる。しかし、私は野球のカーブをまずイメージした。それも「稀にくる」だから、直球が主体なんだけど、時になかなか到着しないような、大きなカーブが来る。草若葉で止めているので、初夏の自然の中で野球をしている情景が浮かぶ。多分、主体とする直球もそんなに早くない、大人たちの草野球ではなかろうか。ほっこりして、清々しい、博昭さんならではの情景描写だ。

*岬町小島にて。

2025年5月11日日曜日

香天集5月11日 三好つや子、加地弘子、春田真理子ほか

香天集5月11日 岡田耕治 選

三好つや子
疑問符を横に向ければ春の鍵
蚕豆の寝息がのこる莢の中
後戻りできぬ五体よ夕牡丹
旧仮名風を受け取り竹の秋

加地弘子
山桜四人の一人姿消す
大雨の予報を発ちぬ葱坊主
葱坊主針山に糸通しおく
白色でも黄色でもなく初蝶来

春田真理子
黒文字に水昇りたる菓子司
水仙が膨らんでくる希望かな
おとうとにえほんのはなし初節句
三人の白衣の写真燕来る

牧内登志雄
ゴム長の男の呷るラムネ玉
水底に夏の兆しやモネの池
風に木に水の音にも夏来る
海にわく白き雲より卯波立つ

楽沙千子
おかっぱの頃より愛す麦こがし
気掛りのことなく過ぎし新茶かな
食卓が贅沢となりライラック
一陣の雨に向日葵葉をひろぐ

〈選後随想〉 耕治
後戻りできぬ五体や夕牡丹 三好つや子
 「後戻りできぬ五体」は、身体全体、あるいは人生そのものが、もう引き返すことのできない地点に来ている、というつや子さんの実感を表しているようだ。「五体」という言葉が生々しく、加齢による身体の変化、あるいは病など、自身の身体は一刻一刻、人生の終わりに近づいている。牡丹も、夕べの牡丹だから、少しだけ花びらが閉じ気味になり、陰影のある表情を見せている。この夕牡丹の感触、この取り合わせが、人生の黄昏の中で見出す一瞬の輝きや、それを慈しむ心境が表現されている。

白色でも黄色でもなく初蝶来 加地弘子
 春先に見かける蝶としては、紋白蝶や黄蝶などが一般的だ。しかし、弘子さんはあえてその一般的な色を否定している。「白色でも黄色でもない」ということは、予想外の色、あるいはもっと珍しい色、あるいは光の加減や見る角度によって特定の色と言い切れないような、微妙な色の蝶が現れたことへの驚きや新鮮さを表現している。否定形を用いることで、読者は一体どんな色の蝶だったのだろうかと、想像を豊かにし、自分なりの色を作り出すことができる。生きるということは、まさにそのような営みなのかも知れない。
*岬町小島にて。