2025年1月26日日曜日

香天集1月26日 渡邉美保、玉記玉、前塚かいち他

香天集1月26日 岡田耕治 選

渡邉美保
薬箱と同じ匂ひのちやんちやんこ
枇杷の花兄が二階で泣いている
冴ゆる夜の地に散らばりし空薬莢
寒波来る鶏はまぶたを上へ閉ぢ

玉記玉
日を追って日に迷い出すいかのぼり
梟や水には月の蓋をして
五指枯れる蘇鉄の青に触れるたび
薄氷のだんだん楽器そして空

前塚かいち
冬怒涛能登に上がりし海の幸
能登はまだ能登にはあらず初山河
帰り着く島の香りや寒雀
寒に入る髙山右近像の視野

夏礼子
枯蓮記憶へたどり着く時間
冬の蚊と同じ視線をさずかりぬ
そのことに触れるのは今ポインセチア
過ぎてより水仙の香の立ちあがり

中嶋飛鳥
毛糸編む太声にしてニキビ面
印泥の滲む一句の初便り
買初の列あまんじて「御座候」
来し方に似て双六の上り道

柏原玄
一切の過去を置き去る初日かな
いつもより言葉を飾り寒四郎
寒椿無垢の強さを保ちけり
肝胆に沈むさみどり薺粥

加地弘子
メロディーは荒城の月寒の駅
殿のニ羽戯れる冬の鳥
石蕗や百歩を残しギブアップ
ひとつだけ縮んでゆけり葉牡丹よ

釜田きよ子
寒鯉や二十四時間熟慮中
福寿草家族の顔で咲いており
老眼に風花という眩しきもの
冬耕の男にありし火の匂い

砂山恵子
侘助や師匠のこゑはよく通り
鴨三羽どれが本妻なのかしら
桟橋の端の花束冬うらら
カステラの薄き紙剥ぐ春隣

前藤宏子
皆が皆同じ仕草を初詣
地について落葉の色の止まりけり
多国語の雑踏にあり初詣
亡妹に似た子となりぬ寒卵

宮崎義雄
先生も子供に戻り干大根
写真撮る数の多さを節料理
「姐さん」と呼ぶ声のする初戎
巡回す工場の夜の虎落笛

森本知美
小春日や桧を削る香に寄りぬ
柚子湯かな大合唱を聴いてより
冬の星呼ばれたるかと立ち尽くす
オリオンに浄められゆく大地かな

金重こねみ
星模様輪切りりんごの真ん中に
軽口を写真に返す初昔
何もかもひと抱えして去年今年
停戦のガザ終戦を祈る春

安部いろん
潮騒 あきらめ諭す冬の海
拒むよう燃えていく文クリスマス
消えずいる山火事君にある不満
捨てられる姥たちの声滝凍てる

松並美根子
マスクして顔と年齢一致せず
内風呂やゆるやかに立つ柚子の香よ
皆老いて皆笑い合う福寿草
去年今年笑い忘れしこと多し

目 美規子
客去りて温め雑煮の夕餉かな
松過ぎの葬儀数多を思い寄す
それぞれの格差を抱え初仕事
木枯や袈裟ふくらますオートバイ

吉丸房江
賜りし梅のつぼみに初日の出
初御空ルンルンと孫帰国する
令和七年わが同胞は二十六名
雑煮餅二ついただき卒寿越す

〈選後随想〉 耕治
枇杷の花兄が二階で泣いている 渡邉美保
 ここから小説が始まりそうな美保さんの一句。兄が、二階という少し離れたところで、しかも泣いているという。なぜ泣いているのか。兄の孤独というか、思春期の孤独とも考えられるし、家族とは離れたところに位置する兄の状況も浮かんでくる。枇杷の花は高いところに咲くので、二階の兄を気に掛ける妹との関係も見えてくる。枇杷の花を置くことによって、兄は泣いたままで終わるのではなく、これからの希望も見て取れる、複雑でリアルな一句。

梟や水には月の蓋をして 玉記玉
 一読して、おとぎ話の場面を想起させる。水があって、その静かな水面を照らす月があって、そしてそこに鋭い目を向けているフクロウが止まっているという、ある種の緊張関係も感じられる。月の蓋というのは、この水を覆うように光が満ちている、その中心点だろうか。この蓋は、別世界への入り口のような感じがする。溢れる思いを写実として表現する、玉さんならではの一句。

能登はまだ能登にはあらず初山河 前塚かいち
 昨年の元日、能登半島を襲った地震の後の情景を詠んだ。「能登はまだ能登にはあらず」という表現は、地震によって変わり果てた能登の姿への悲しみと喪失感を表している。かつて自分が知っていた能登の面影はなく、まるで別の場所になってしまった、多くの人がそう感じているにちがいない。それほどまでに、能登の復興は遅遅としている。「初山河」は、新年になって初めて見る山や川のことで、本来はおめでたい意味を持つ。しかし、この句では、変わり果てた能登の風景を「初山河」と表現することで、その痛ましさを際立たせている。復興への願いを込めていると解釈することもできようが、それよりも、失われたものの大きさを強調する、かいちさんの快心作だ。
*岬町小島にて。

2025年1月19日日曜日

香天集1月19日 柴田亨、湯屋ゆうや、三好広一郎、木村博昭ほか

香天集1月19日 岡田耕治 選

柴田亨
ブリ大根平和を生きる鍋の底
星ひとつ入れて下さい冬銀河
寒晴の更地に風の生まれおり
詩人逝くいのち養う冬の巨樹

湯屋ゆうや
ふさわしい背中となりし春着かな
門松と門松の間を眩しめり
銭湯の木札鍵挿す冬の月
スキップはとても前傾冬菫

三好広一郎
寒林の隙間に立ちし学生服
夫婦別姓こちらが牡丹です
受験生ひとつ足りないコンセント
悪いけど疑っている冬の虹

木村博昭
母を呼ぶボーイソプラノ息白し
無防備な顔が並んで日向ぼこ
動かざる蔵の白壁日脚伸ぶ
福耳に補聴器を付け初句会

川俣実咲
ひねくれた君にあげよう初日の出
年の夜や血圧手帳を書き終えぬ
元日のどこへ逃げても忍び寄る
年忘れトイレのポスターに逃げる

平木桂子
笑い皺増やすと決める初鏡
霜焼けの赤く痒きに母のこと
右だけになりし手袋ゆかしくて
初景色伸びる二の字の飛行機雲

上田真美
ありふれた悲喜かも知れず日記果つ
駅伝を眩しく眺め車椅子
初湯殿動けぬ人の手足伸ぶ
ラインから年賀はがきの届きけり

神谷曜子
一葉忌市民オペラに出演す
枯蔦の看板映画館壊さる
年賀状終いふわりと届きけり
父の忌の寒夕焼を全身に

古澤かおる
水仙に荒れはじめたる野辺の風
ハイヒール風に福笹泳がせる
寒紅の女将は夫の同級生
猫の戸を開けておくなり去年今年

嶋田静
葉牡丹の渦に小さな独り言
雀たちどうぞ稲穂の注連飾
三が日戦のニュース休みなし
焼きみかん手に持ち帰る足軽し

〈選後随想〉 耕治
ブリ大根平和を生きる鍋の底 柴田亨
 「平和」というのは、人によっていろんな取り方があるため、扱いが難しい言葉だ。戦争と平和なら戦争の方が書きやすいかも知れない。そんな「平和」という抽象と、「ブリ大根」という具体を何で均衡を取っているかというと、「鍋の底」であるところがいい。ブリ大根を食べることができるから平和だという、そんな単純なイコールではない。「鍋の底」は、文字通り鍋の一番深い部分だけでなく、「心の奥底」や「人生の根底」といった意味合いも感じられる。底辺というか、低いところからブリ大根と平和を捉える位置に私たちを連れていってくれる、柴田さんならではの秀句だ。

ふさわしい背中となりし春着かな 湯屋ゆうや
 誰かのために、あるいは何かのために「ふさわしい背中」となっているという、この湯屋さんのまなざしに注目する。13日の成人の日に春着を着ている人を見かけたが、ふさわしい背中というのはどういうことだろうと、様々に思いを馳せることができる面白さがある。春着というのは、成人式とかハレの日に着るものだが、春着にふさわしい背中になればなるほど、また苦労も増えていくというようなことも、合わせて感じ取ることができる。

夫婦別姓こちらが牡丹です 三好広一郎
 先日の大阪句会で話題になった句。とくに西田唯士さんが、「牡丹」という華やかな花から妻を想起させるので、夫はきっと「唐獅子」と名乗っただろうという鑑賞に笑いが起こった。夫婦別姓については、経済界からも「不自由なく自らの姓を選択できる制度の実現」が政府に提言されているが、なかなか制度改革が進まない。そんな情況下で「こちらが牡丹です」と、対話的な要素を含んで読者を作品の中に引き込み、「牡丹」というインパクトのある言葉を際立たせた。社会的な制度を伝統的な価値観から脱皮させるためには、「牡丹」という、個人のアイデンティティや多様性を象徴する花が相応しいと感じさせてくれる広一郎さんの一句だ。
*大阪教育大学天王寺キャンパスにて。

2025年1月12日日曜日

香天集1月12日 三好つや子、加地弘子、春田真理子ほか

香天集1月12日 岡田耕治 選

三好つや子
冬うらら犬には犬の幼稚園
一切れのケーキを添える風邪薬
バンクシーを待つ壁あまた冬銀河
寒茜ヘモグロビンに火がついた

加地弘子
雪ばんば呆けてとんぼ返りかな
紙切ってみせる包丁十二月
姉が着る妣の愛したちゃんちゃんこ
鮟鱇の吊し切り買う漁師町

春田真理子
黄落の幽冥におくこの身かな
家中に付喪神増え十二月
はち切れんばかりの頬よ実南天
短日の夜は恍惚と爪磨く

北橋世喜子
秋晴の車内放送六ヶ国
のっぽ菊添え木にもたれ香り立つ
着ぶくれて隣近所の集まりぬ
湯気を立てラグビーボール飛び出せる

半田澄夫
秒針の耳に纏わる月の闇
冬の夜半湯煙黄泉へのぼりゆく
小春日やカフェテラスにて何を待つ
シクラメン絵筆を止めて回想す

中島孝子
枯尾花車に合わせ波うねる
デパートや故郷飛騨の赤蕪
すがりたる紅葉を流し洗車水
遊歩道尾花となりて揺れ合いぬ

上原晃子
枯葉踏む音のみ続く牛滝路
紅葉かつ散る牛滝の赤赤と
つわぶきの黄色が急に咲き揃う
スーパーのビッグセールと冬に入る

橋本喜美子
せんべいを断る鹿の冬日向
百歳の叔母の晩酌紅葉鯛
冬紅葉読経の響く二月堂
一斉に枯葉地面を走りけり 

牧内登志雄
婆さまの女正月薄化粧
おにぎりをまあるく包む寒の海苔
七種の粥に息災ふつふつと
星明りみしみし伸びる軒氷柱

石田敦子
「自由に」と記す白菊いただきぬ
生姜湯をフウフウと飲む寝るために
一樹だけ輝いている銀杏黄葉
冬日和再配達の荷物待つ

東淑子
大くさめ障子の外はクスクスと
ゆっくりと仕舞う干し物日短し
来るたびに大きくなりぬ敷炬燵
年の瀬やひとり甘酒飲みながら

〈選後随想〉 耕治
紙切ってみせる包丁十二月 加地弘子
 冬の寒空の下、紙を切る包丁の鋭い輝きを鮮やかに描き出し、静けさの中に緊張感を生み出している。「紙を切る」という動作は日常的な行為だが、それが「包丁」であるところが、読む者の目を引く。包丁の鋭さや動作の美しさを想起し、まるでパフォーマンスを見ているような臨場感を生み出している。もともと包丁は調理器具であり、温もりを感じさせる道具であるが、同時に鋭い刃を持つ危険な道具でもある。この両極が、冬の静けさの中に潜む緊張感を際立たせている。まして「十二月」、冬の寒さだけでなく、年末の慌ただしさなど、様々なイメージを喚起させる、弘子さんならではの一句だ。
岬町小島にて。

2025年1月5日日曜日

香天集1月5日 玉記玉、森谷一成、浅海紀代子、佐藤静香ほか

香天集1月5日 岡田耕治 選

玉記玉
シンバルの出番は一度クリスマス
降る前の雪の匂えりされこうべ
梟の夜や少年となりし眉
大勢の自分を探し日記果つ

森谷一成
顔見世や處びいきの負ぎらい
手のひらに少年をのせ開戦日
福耳のうしろに並ぶケーキかな
一瞬の尖にとどまる除夜の鐘

浅海紀代子
全粥の箸に重たき寒夜かな
他人の手に委ねる体花八手
ふぐと汁余生いくばくかを知らず
広告がバサリと床に年の暮

佐藤静香
白菜は翼を重ね飛ぶを待つ
綿虫やいのちの重みもつて浮く
枯菊の残れる彩に懺悔あり
命果て薬香の消ゆる寒さかな

宮下揺子
魂のひたひたと来る返り花
馬の目のどこまでも澄む冬の朝
冬青空パタパタ開く山の地図
極月の余白潤すケーナかな

吉丸房江
初日の出梅のつぼみも手を叩く 
豊作を恵み賜いし筑紫富士
七人の曾孫を加え雑煮餅
「転ばんとョ」声かけ転ぶ霜の朝

岡田ヨシ子
彼の世へは届けられない紅葉かな
百歳へ指折っている初明り
ケアハウス帰る人なきお正月
若き日のお重おせちの三セット

川端伸路
こんでいる値上げラッシュの大みそか
親切とゲームたのしむお正月
お正月兄のしゃっくり止まらない

川端大誠
元日の清水が流れ通潤橋

川端勇健
年明けの抽選会は大外れ

〈選後随想〉 耕治
シンバルの出番は一度クリスマス 玉記玉
 クリスマスは、一年のうちでも特に華やかで、音楽が盛んに奏でられる時。クリスマスは一年に一度のイベントであり、シンバルの音もまた、一瞬の輝きとして現れ、消えていく。調べると、ドヴォルザークの「新世界」は、シンバルがたった1回鳴り響く曲とのことで、作者はこの曲をイメージしたのかも知れない。他の楽器の奏者は、その曲を何度も練習し本番を迎えるが、たった1打のシンバル奏者も、また同じではないか。そう見直すと、私たちの人生もまた、出番は一度きりであり、この世に生まれた一音を響かせているのではないかと読めるような、玉さんならではの一句だ。

親切とゲームたのしむお正月  川端伸路
 伸路さんは小学四年生。お正月にゲームをたのしむのは一般的だが、「親切」もたのしんでいるという。親切は、人情の厚いことと「広辞苑」にある。「よう来てくれたね」「はい、お年玉」「これを食べる?」「好きなものを食べたらいいよ」「初詣にも行こうね」と、人情を感じることの多いお正月だったのだろう。親切は、深切にも通じ、深く切なること。多くの親族に出会う正月は、そんなことを感じさせてくれるひとときだったにちがいない。
*大阪市天満天神「繁昌亭」にて。