2016年3月31日木曜日

歩かねば若草の香の立たざるよ 長島衣伊子

歩かねば若草の香の立たざるよ 長島衣伊子
「俳句界」4月号。3月31日、年度末にふと立ち止まってこの一年を振り返っています。順調に運んだこと、思うように行かなかったこと、「できた」と「がんばろう」が、交差した一年でした。でも、このまま止まっていては、若草の香り立つ野原の空気を味わうことはできません。過去と他人は帰られない。現在も私もままならない。でも、歩いていくことでしか見えてこない未来がある、そんな希望をこの句からいただきました。

2016年3月30日水曜日

桐一葉基地の広さのただならず 大牧 広

桐一葉基地の広さのただならず 大牧 広
「俳句界」4月号。第15回山本健吉賞を受賞された特集の、自選50句を味わいますと、大牧広さんという俳人の存在がより貴重なものとして立ち上がってきます。あっち向いて蝶々かな、こち向いて桜かなと書き散らすことなく、ご自分の伝えたいことは何かをしっかりとお持ちになって書いて行く、そのような俳人の典型として、この度の受賞の意味があるのだと思います。桐の木を一年間を通じて見ていますと、春から夏にかけてつくってくれた大きな木陰が、一葉ずつ地に落ちてやがて無くなってしまいます。「桐一葉」が、全ての喪失の初めに置かれているのです。この国の基地の広さとともに。

2016年3月29日火曜日

陶枕に穴遠くから人がくる 永末恵子

陶枕に穴遠くから人がくる 永末恵子
「週刊俳句」322号。先日、ご家族から簡潔な訃報が届きました。永末さんとは、何度かご一緒しましたが、黒のよく似合うファッションセンス抜群の方でした。ハスキーな声の会話を愉しみながら、よく日本酒を傾けました。陶の枕には空洞がありますが、それは自らの空洞でもありましょう。そこに遠くから人がくる気配を感じている。独り行くものとして作句を続けていく、その根底に人に通じてゆこうとする予感が在ったのです。ご冥福をお祈りします。

2016年3月28日月曜日

「紙の切符」 岡田耕治

「紙の切符」  岡田耕治

てのひらを一度上向け春耕す
薄氷の音のしている光かな
蛇穴を出て水中を伝いけり
朝五時に点りはじめる初桜
覚えたる人を大事に草を摘む
友達になりて重なるしゃぼん玉
春休ウルトラマンの揃いたる
野に遊ぶたやすく転ぶ術を知り
苜蓿背中の骨を鳴らしけり
漱石を新聞で読む春の暮
定刻にたんぽぽ吹かれいる鉄路
春寒し紙の切符を持ちて待つ

2016年3月27日日曜日

香天集3月27日 石井冴、久堀博美ほか

香天集3月27日 岡田耕治選

石井 冴
つちふれり天眼鏡の悟朗にも
げんげ田とつながっている煙出し
春雷のあと秒針の残りたる
教室に置けば光のヒヤシンス
久堀博美
春の風トロ箱の底ぬらしけり
おおかたは溢す目薬花の昼
片方の軍手がまみれ彼岸潮
春の塵規則正しく尖りたる
橋爪隆子
蝌蚪の国雨を明るくしていたる
パソコンの画面固まり春の闇
指先や日にぬくもりし土筆摘み
白買って赤ほしくなるシクラメン
中濱信子
卵ボーロ口にひろがり朧の夜
耳遠き夫に近づき木瓜の花
鳶の輪や菜の花の里平らにす
花の山眼下に鳶の舞を見て
橋本惠美子
春風や防災袋ふくらませ
信号が同時に変わり春疾風
整列をはみ出す視線桜草
涅槃西風勝手に開く自動ドア
木村 朴
市庁舎がいちばん高し霾ぐもり
平らかに人を待ち居て春の水
裏山をふり向きざまに初桜
春泥を袋に詰めて球児たち
立花カズ子
欲しいだけ我が手に摘みて花菜かな
壺中にて棹のふくらむ桃の花
夢に来る幼き姉やシャボン玉
頭だけ土筆摘みゆく幼き子
永田 文
川岸の微熱のごとく野梅咲く
舞うような光となりて白木蓮
下駄箱の上履疲れ卒業す
磯臭き文字の貼られて干鰈
村上青女
鶯の初音を告げて夕の卓
ふるさとやいそひよどりが朝を告げ
ふきのとう今年の顔で庭の隅
球春や卓上の茶の湯気のぼる
畑中イツ子
ぼたん雪落し蓋してものを煮る
まず芯をくり抜いてゆく春キャベツ
木蓮の新芽を見つけ十八歳
藪柑子毎日違うひとりごと

2016年3月26日土曜日

どこからも見えて淡海の沖霞む 鈴木六林男

どこからも見えて淡海の沖霞む 鈴木六林男
鈴木六林男師は晩年、よく淡海に出かけられました。淡海を見ていると、日常の様々なことから抜け出せるように感じられます。それは、六林男師が深夜まで本を読み、文章を書き、俳句を書く営みの果てに、湯舟にその身を浮かべるような感覚ではなかったかと想います。淡海はどこからも見えて、しかもどこからも遠く霞んでいます。その事実を見つめる視線は、かすんではいません。

2016年3月25日金曜日

あるきつつ鍵を鳴かせる朧かな 野口る理

あるきつつ鍵を鳴かせる朧かな 野口る理
「俳句四季」4月号。「鍵を鳴かせる」という表現にまず惹かれました。鍵を鳴らすとよく言いますが、鳴かせるというのは、わざと鳴らしているような、鳴らすことを愉しんでいるような響きがあります。鍵の数は、自らが管理する空間の数です。その数が増えればそれだけ、責任が増すことになります。それらの空間も、鍵を鳴らすことによってくすぐってしまおうという、そんな朧の夜です。

2016年3月24日木曜日

葱坊主同士もたまに接触す 岡田由季

葱坊主同士もたまに接触す 岡田由季
「俳句四季」4月号。玉のような葱の花は、春先の色彩の少ない光景を明るくしてくれます。そこには、風が訪れ、生まれたばかりの蝶がやってきます。そんな接触を繰り返しながら、時には葱坊主同士が触れあうこともあるのです。陽気な中にも、そこに立ち続けないといけない哀しみがあって、それが接触することによるくすぐったさが、一句を際立たせています。

2016年3月23日水曜日

月は地の薄氷を追いかけている 対馬康子

月は地の薄氷を追いかけている 対馬康子
「俳句四季」4月号。薄氷が月光をたたえている、そんな静かな光景にまず安堵します。次に、回転する地球上の薄氷を月が追いかけているという把握に、初めの安堵が揺らいできます。なんと大きな把握の仕方でしょうか。こんな句に接すると、俳句表現はつくづく格好いいなと感じます。同誌の110頁に私の「桜鯛」8句を掲載していただきました。掲載していただいたから言うのですが、このごろの「俳句四季」の編集、ひと味もふた味も違います。格好いいのです。

2016年3月22日火曜日

売り物のソファーに座る日永かな 金子 敦

売り物のソファーに座る日永かな 金子 敦
「セレネッラ」第7号。家具を選ぶとき、特に椅子を選ぶときは実際にそれに長く座ってみる必要があります。ましてソファーですと、どんな姿勢を取るのがいいかとか、何をする時間が一番長いかとか、誰となら一緒に座ってもいいかとか、いろんなことを考えながら次次と座ってみることになります。売り物のソファーには、まだ形になっていない物語があるのだと、そんなことを教えてくれる一句です。次の休みの日、午後から家具売り場をのぞいてみますか。

2016年3月21日月曜日

「優良納税者」 岡田耕治

優良納税者 岡田耕治

茎立や日のあるうちに帰りたる
蕗の薹炙り優良納税者
春の雨どこも濡らさず辿り着く
学校の航空写真水温む
少しだけ嘘を交えて卒業す
遅くまで音立てている卒業子
理髪店のタオルと若布干されけり
金山寺味噌を掬いて春キャベツ
苜蓿かけ声一つ起き上がり
蟻穴を出る一つからこんなにも



2016年3月20日日曜日

香天集3月20日 浅野千代、谷川すみれ他

香天集3月20日 岡田耕治選

浅野千代
白き息吐かんと朝の道に出る
三月の手帳を照らす信号機
練習の声を聞きいて花の種
定食の白子上手によけて食う

谷川すみれ
鯉のぼり開け放たれて母屋なる
盛りあがる卵の黄身や天神祭
耳にあるシュプレヒコール欅若葉
白靴を揃え直して消燈す

加地弘子
春泥の孫を叱ってしまいけり
エンジンを吹かしていたり春の泥
色薄き鉢の香り木の芽和
喇叭水仙また横向いていたりけり

澤本ゆう子
俎の傷を確かめ葱刻む
春の風ショウウィンドウを覗き去る
すきまなく香りをひろげ臥龍梅
啓蟄やとりわけ朝の深呼吸

竹村 都
母の手を払いて掴む雛あられ
朝寝して「行って来ます」の声遠く
背をまるめ足早にゆく涅槃西風
アルバムの整理進まず春炬燵

中辻武男
愛らしき頬寄せてあり雛飾
湖畔路を競い始めて杉の花
引込線歩道となりて犬ふぐり
いかなごのくぎ煮老漢奮起せり

【香天集鑑賞】
耳朶のやさしき湿り夕桜 谷川すみれ
 桜狩りに出かけて日暮を迎えますと、あたりが
何時もより湿り気を帯びてきます。その雰囲気を
全体として捉えるのではなく、「耳朶」に焦点を
合わせているところが新鮮です。胎児は既に何でも
聞こえているといいます。死を迎えようとしている
人も、耳だけは聞こえているといいます。そんな
鋭敏な耳が、夕桜のなかでやさしく湿っている、
この感覚こそ、作者が求めている核心にあるものに
ちがいありません。

2016年3月19日土曜日

松は影の梅は光の木なりけり 神野紗希

松は影の梅は光の木なりけり 神野紗希
「俳句α」4-5月号。神野さんの自選200句を読んでいますと、青春の眩しさを感じる句が目に飛び込んできます。でも、どちらかというと、掲句のようなまなざしの確かな句に惹かれます。中学校の校長をしていた頃、華道の先生が、友人の山から切り出してきた太い竹に、同じく松と梅を活けて、卒業生を祝ってくださいました。その時の大きな生け花には、竹と松が背景になって、一枝の梅、その光が浮き立たっていました。

2016年3月18日金曜日

貘枕いづれの世にぞ目醒めたる 有馬朗人

貘枕いづれの世にぞ目醒めたる 有馬朗人
「俳句α」4-5月号。「獏(ばく)」は、象のような鼻、サイのような目、牛のような尾、虎のような足を持ち、その皮を敷いて寝ると湿気を避け、邪気を払うと言われました。文化財として残っている枕にも、漠が描かれているものがあり、悪い夢を獏に食わせてしまおうという願いから作られたものです。「旅行く日々」と題された10句には、何処にでも出かけようとする自在さが感じられます。それは、空間としての自在さであり、時間としての自在さでもあります。「いづれの世」の「いづれの場所」へも魂を遊ばせることができ、そこで生起することを愉しもうとする有馬さんの目が輝いています。

2016年3月17日木曜日

ころがしておけ冬瓜とこのオレと 坪内稔典

ころがしておけ冬瓜とこのオレと 坪内稔典
「船団」108号。冬瓜を買うときは、目的がはっきりしていますので、すぐに調理にかかります。でも、冬瓜をいただいたりしますと、しばらく台所に転がしておくことになります。この存在感は尋常ではなく、たやすく調理のイメージを浮かべることができないほどなのです。ということは、「このオレ」と共通しているのかも知れません。目的がぼんやりしてきて、すぐに調理にかかれそうにない「オレ」は、ころがしておくにかぎりますよ。

2016年3月16日水曜日

団栗をポケットに入れしまま大人 工藤 惠

団栗をポケットに入れしまま大人 工藤 惠
「船団」108号。ポケットに団栗を入れたままにして、その上着を再び着たとき、「あれ団栗が入ってる。何時入れたのかな」と。それは、最近のことでも、去年のことでもなく、幼い頃に入れたような気がしてきます。作者がきっと「大人」の今を、それほど悪くないと思っているからでしょう。団栗が時をさかのぼっていきました。

2016年3月15日火曜日

海流れながれて海のあめんぼう 三橋敏雄

海流れながれて海のあめんぼう 三橋敏雄
『俳句の気持』津高里永子(深夜叢書社)。津高さんは、NHK学園俳句講座で仕事をされていますが、一昨年「香天」の総会にご出席いただいたとき、多くの俳人との出会いが私の財産ですと仰っていました。その財産が、一冊のすてきな本になりました。この句について津高さんは、〈「事実かもしれないが、もの珍しいものを詠めばいいというものではない」と句会の仲間からコテンパンに言われて推敲したんだよと笑って教えてくださいました〉と、三橋敏雄さんの肉声を伝えています。
 藤原ナチュラルヒストリー振興財団のホームページによると、外洋に生息する昆虫はアメンボ科ウミアメンボ属の5種しかいないとのこと。横須賀海兵団に入隊し、戦後も運輸省所属の練習船事務長として日本丸、海王丸などに乗っておられた三橋敏雄さんですから、きっと海あめんぼうをご覧になったと思います。実際に見たものを、見たことのない読者に伝えようと、余計な物を捨てて、海と海のあめんぼうだけを「流れる」という動詞で繋いだシンプルな一句が誕生しました。


2016年3月14日月曜日

「豚饅頭」 岡田耕治

「豚饅頭」  岡田耕治
春風を満たしていたる渇きかな
三人が降りて茅花を乱しけり
   宮城10句
今どこを走りいるのか春の海
初蝶に学校だけが残りけり
立入を禁じて春を解体す
どこまでも防潮堤の春の闇
ダンプカーだけが走れる春埃
「小熊座」を重ね東北震災忌
春の波音深くして行き合える
波だけとなってしまいし春の海
桜桃の花一目だけ会いに来る
閉校の近づいている桜かな

地虫出る考え続けたる山に
卒業の荷の中にあり豚饅頭



2016年3月13日日曜日

香天集 3月13日 中嶋飛鳥、中村静子ほか

香天集 3月13日 岡田耕治 選

中嶋飛鳥
銅の牛の目潤む春の風
ポンカンの種は泪の形なり
零点をラブと呼び為し春の雲
描き忘れたる紙雛の目鼻立ち
春の星明日マチュピチュへ発つと言う

中村静子
一灯を点して足りる初湯かな
斑雪刈株の香を深めけり
ここからは潮の香つづく恵方かな
受け皿の紅茶の温み二月来る
沈丁の香に包まれてシーツ干す

高橋もこ
歯茎より血を出し恋の猫戻る
苗木売英字新聞見開きに
真正面よりたんぽぽのわた飛ばす
春眠を覚ます七つの落とし穴

宮下揺子
アドレスを変えて新年スタートす
初点前松籟を聴く八十歳
節分会役立たぬもの買ってくる
したたかに転んでいたり春の雪

2016年3月12日土曜日

行く年の映画の地球滅亡す 眉村 卓

行く年の映画の地球滅亡す 眉村 卓
「俳誌要覧」2016年版・東京四季出版。日本を代表するSF作家の俳句を「渦」という結社の歩みから見つけました。「ディープ・インパクト」など、地球が滅亡に向かう映画は、12月に見ると重く感じられるでしょう。「映画の」と断りを入れているところに、作家独特のユーモアを感じます。どうぞ映画の中だけのことでありますよう。

2016年3月11日金曜日

原子炉を遮るたとえば白障子 渡辺誠一郎

原子炉を遮るたとえば白障子 渡辺誠一郎
「小熊座」2月号。被災した人は、3月10日に家族と過ごしたことなどを鮮明に記憶していると聞きました。この日に稼働中の高浜原発3、4号機を停止させたという報道がありました。渡辺さんの句は、そんなことを予想していたかのように、「原子炉を遮る」と始まります。今回のように現実に原子炉を停止させる前に、まず「白障子」をもってしても遮ることは出来るのだと。もちろん「障子くらいで」と思われることは覚悟の上で、それでも。

2016年3月8日火曜日

木枯を聞くなら土管膝抱え 高野ムツオ

木枯を聞くなら土管膝抱え 高野ムツオ
「小熊座」2月号。旅の鞄に「小熊座」を入れて、宮城県に来ています。仙台駅周辺は地下鉄も走り、活気がありますが、海へ車で走りますと、復興には程遠い状況です。「土管」は、土に埋められて初めてその役割を果たします。地上に放置されているそれは、復興を待つ東北の姿であるように感じます。土管の中に入って膝を抱えて木枯を聞いている姿は、東北に来てよりリアルに像を結びました。

2016年3月7日月曜日

「布鞄」 岡田耕治

「布鞄」 岡田耕治
布鞄ただ歳時記の春を入れ
目に涙ためたる人の春の海
朝まで待てないというしゃぼん玉
この街の書店が閉まり紙雛
蜆汁新婚旅行から帰る
共にいてたのしい人の春火鉢
雛納信じて待っておくことに
コンピュータ開くと草の青みけり
古紙として重なっている春の夜
風光る出口にビッグイシュー立つ

2016年3月6日日曜日

香天集 3月6日 久堀博美、浅野千代ほか

香天集 3月6日 岡田耕治選

久堀博美
ポケットの小銭を増やす日永かな
ビニールの屋根を鳴らして春嵐
ふだん着のすこし酔いたる春ともし
朝寝して起床後の我見ていたり
介護とは春を一緒に遊ぶこと

浅野千代
客の来て帰りし後のクリスマス
長い長い遺言春のはじまりに
牡丹雪ぼくをきらいな君が好き
起こること凡ては些細葱の花

釜田きよ子
冬の雲土に練り込む唐津焼
梟の置物ごろすけほーと鳴け
春立ちぬえびせんべいの紅ほのか
山笑う雲の枕を取り払い

小崎ひろ子
駅の階うらうらと春ついてくる
デイジーの遥か向こうに誰か居た
沈黙を呼び出している梅の花
窓開く空にいきなり春の雲

坂原 梢
老翁の声のはつらつ苗木植う
なつかしい人を数えて針供養
病院のマスクとマスク擦れ違う

冨永道子
待合の帆船孕み春の風邪
赤赤と辻の地蔵の春帽子
越前の水の豊かに紙雛

2016年3月5日土曜日

かの梅の咲いてゐる筈熱の中 大牧 広

かの梅の咲いてゐる筈熱の中 大牧 広
「港」3月号。生家の庭に一本の梅があって、今ごろは白い花を香らせていました。どこにでも咲く梅でもなく、たくさん集まっている梅でもない「かの梅」は、今ここにはありません。しかしきっと咲いているに違いないという確信は、「熱の中」から生まれてきます。では、この「熱」とは何でしょうか。今ここにある人の熱は、梅が咲いている日差しの中の熱と通じているように感じられます。私たちは地球という「熱の中」に生かされているのですから。

2016年3月3日木曜日

立春の夜を退院の荷の中に 寺井谷子

立春の夜を退院の荷の中に 寺井谷子
「自鳴鐘」3月号。入院先から「明日退院します」とのお葉書をいただきました。骨折のために入院されておられたので、時間が何よりの薬だったのではないでしょうか。清算をすませたらすぐに退院できるよう、長く居た病室の品物を荷づくりしてしまいました。病室に見えていた物がなくなりますと、入院したばかりの空洞の中に居るようです。そんな淋しさと希望を捉えたのは、立春の夜そのものを荷の中に仕舞ってしまったという、繊細でいて大胆な表現です。

2016年3月2日水曜日

寝過ごしてひとり降り立つ銀河かな 五島高資

寝過ごしてひとり降り立つ銀河かな 五島高資
「俳句大学」創刊号。寝過ごさないよう、時間に遅れないようにすることが、社会で生きる上での基本だと教わりました。だから、寝過ごしてしまったこと、遅れてしまったことに象徴性が与えられることはほとんどありません。しかし、ここには寝足りたときの心地よさと、過ぎてしまった時間へのあせりと、それを超えた自在さがない交ぜになっています。この国の人々は、銀河にこの身を出会わせることによって、このように自らを保ってきたのです。

2016年3月1日火曜日

梅雨深しこの話どう収めんか 永田満徳

梅雨深しこの話どう収めんか 永田満徳
「俳句大学」創刊号。結社を超えて俳句と向き合う新しい「座」が誕生しました。学長を務める永田さんには、この間さまざなまご苦労があったと思いますが、さわやかな一巻を手にされた関係者の喜びが聞こえてきます。様々に生起する「この話」、それを上から目線で一蹴するのではなく、誰もが納得するよう収めどころを新しく求めてゆく、そんな「俳句大学」の姿勢が伝わってくる一句です。